楽の章
2004年5月24日月曜日「キラー遺伝子」
 このたび最年少の江戸川乱歩賞受賞*とのこと、乱歩賞は新人ミステリ作家に贈られる最高の賞でミステリの芥川賞といった位置づけである。しかし芥川賞とは違ってエンタテイメント、ミステリの分野なので背景となる事実の検証がぜひとも必要だ。身の回りのちょっとしたことを書けばよしという純文学私小説的とは対極にある。従って社会人としての経験を積まないとなかなかむずかしいと言われてきただけに今回のことは快挙である。

昔からミステリは好きでよく読んでいた。昔は「推理小説」と呼んでいたが、推理なぞなくてもサスペンス・ハードボイルド・ホラーなどひっくるめての新しい統合ジャンルとしての呼称であるミステリ(ちなみに最後にのばす棒は最近みんな取っ払うのがイキとされている。たとえばドライバ、プリンタなどであるが、すべてではない。バルコニーとか変だし、医療器械のエコーはもっと変になる。余談だが)のほうがかっこいい。中でも、本格推理小説・・・こちらも最近はパズラーと呼んでいる・・・あれ棒がついている??が一番好きで、中学時代は犯罪者にでもなるつもりか、と疑われるくらい読み込んでいた。

 パズラーとは水戸黄門張りにおきまりのパターンで、
 犯罪発生、だいたいは殺人事件→不可解な手がかりが散乱→警察が捜査するが無能を露呈→名探偵登場→手がかりをつなげるが読者には名探偵のやっていることがさっぱりわからず意味不明な行動→名探偵悩む→最後の手がかりがひょんなことからあらわれるが読者にはあいかわらずなんのことやらわからない→関係者を集めて謎解き。
 と、まあこういうことになっている。特に最後のシーンは「名探偵みんなをあつめてさてといい」と川柳までなっておちょくられているくらいのワンパターンだが、ここが私どものようなパズラー中毒にはたまらない魅力となっているのだ。マンガ好きの諸兄なら「金田一少年」の決めぜりふ「謎は、すべて、解けた!」といったところか。

 パズラーにはさまざまなシチュエーションがあって、中でも「閉鎖空間事件」タイプは数多く書かれている。ある目的を持って集められた登場人物たちがなんらかの特殊状況下でそこから出られなくなる。そこで殺人事件がおこる、といったものだ。代表的なのが「無人島にある別荘」で船が来るまで孤立、といったようなものだ。悪天候に雪山山荘というものでも同じだ。警察の介入がなく、犯人は確実に閉鎖空間にいる、顔をつきあわせているなかに殺人犯がいるということになるのでいやが上にも恐怖感は盛り上がる。が、この際、どうしてって言いたくなるほどザコキャラで登場するのが「医師」なのである。作者としては警察も鑑識もないので死亡診断のできる者を配置したいのだろうが、これがまたそろいもそろって法医学に通じているのである。私はいざというとき何の器具も持たずでは、死亡くらいは宣告できるが「硬直がこれくらいだから死後何時間だの、ナニガシのにおいがするのでナントカ中毒のおそれがある」とか演説ぶることはできない。いいかげんで言うわけにはいかないし、皆目見当もつかない。医師ならそのくらい知ってるだろうに・・・と責めないでいただきたい。医学生の時にほんのわずか法医学として習ったことを思い出すのは並大抵のことではないのである。ましてや監察医などに就かなければ一生使うかどうかわからない知識である。ミステリをたくさん読んでいるマニアの方が実は詳しい。

 実は法医学も私が習った頃とは雲泥の差で、私の頃はせいぜい「犯人の髪の毛」からは血液型くらいしかわからなかった。今はその髪の毛から遺伝子であるDNAを増幅させて、容疑者から採取したDNAと一致すれば、個人が特定できるし、親子鑑定などもこれで行うことがもはや常識となっている。DNAといえば、その中のどのような場所になんの遺伝子があるか、すべて解き明かす「ヒトゲノム計画」が2000年に達成された。現在補完が進んでおり現時点では99.99%の配列は解明したと言われている。もしもであるが、キーとなるポイントをいくつか、または数十個生まれたばかりの赤ちゃんから老人までDNAを記録しておくとすると、犯罪を犯した時点で遺留品を残した瞬間、本人が特定できることになる。パズラーファンにとってはあまりおもしろくない時代とも言えよう。また殺人者のDNAで共通の個所が高率に見つかれば恐ろしい「殺人遺伝子」が見つかるかも知れない。そしてそれを矯正する方法が見つかれば・・・と空想はつきないが、どうだろうか。 調べても調べても共通の遺伝子は見つからず、結局、「霊長類ヒト科」を決定する遺伝子が殺人遺伝子だったりして・・・満腹でも同族を殺すのは人間だけ・・・ですから・・・そしてその小説を楽しむのも人間だけのようだ(笑)今日も新しいパズラーを探して本屋にしょうこりもなく向かっている


 *最年少江戸川乱歩受賞:2004年 50回受賞作『カタコンベ』の著者神山裕右(当時24歳3ヶ月)は2016年現在でも最年少受賞者です。


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2004年6月7日月曜日「武士道」
 本屋に行くと、平積みになっている人気のコーナーがいくつかある。その中の一つに映画「ラスト・サムライ」で脚光を浴びた「ブシドー(武士道)」に関する本がたくさんあるようだ。この映画私はまだ見ていないのだがDVDになったので、ぜひ見たい作品のひとつだ。
 主演のトムクルーズは新渡戸稲造の「武士道」を読み感動し役にのぞんだ、といわれる。もともと英語で書かれた新渡戸の著作は100年ほど経ってやっと日本に大々的に逆輸入されたことになる。日本でもそれまで細々と読まれてはいたのだが、武士道=古くさい、ということか、五千円札にもなったのに新渡戸の知名度は今ひとつだったようだ。(もっともこの著作は彼の余技のようなもので、本業は農政学者だ。そしてその五千円札も樋口一葉に代わり引退が決まっている。)
 
 さて、その新渡戸がアメリカ留学中に彼の地の友人に「日本人の倫理道徳の教育は何に基づいている?」ときかれたとき、明快に即答できなかった。欧米ではキリスト教がその役目をになっているが、仏教や神道の教えはどうもそぐわないと感じた新渡戸は「武士道」がそれにあたると思い至った。
 そこで、英文で書き上げた論文が先の「Bushido−The soul of Japan(日本の魂)」だ。一言で言うと、高い教養を得ること、正邪を見極めたうえでの強烈な自己規制、地位にふさわしい、はたすべき義務、を説いたものだった。

 はたすべき義務、これは横文字好きの識者のいう「ノーブレス・オブリージュ(高貴なる義務)」と同じことだ。平たくいえば「高い地位にいる人が、いざというときは先頭に立って責任をとる」というものである。
 じつはこれこそが真の「エリート」教育なのだが、日本ではかなりゆがんだ教育というか、エリートとは「むずかしい大学に入り、官僚になること」という意味になってしまった。
 一番大事な「責任をとること」がすっぽり抜け落ちてしまったのがなんとも悔しい限りである。エリートは特権階級や高収入のことではなく、心構えであることは分かり切ったことなのにいろいろな文明を長きにわたってかなり上手に吸収した日本としては不思議なことだ。
 会社などでも不祥事を出したのにもかかわらず、その地位にしがみつき部下のせいにする、または院政のように辞めたように見せかけて権力を維持する、そういう日本では見あきた光景に憤慨しないのはエリート教育がこの国からなくなってしまったからに他ならない。
 
 武士の心構えは真のエリートを限りなく体現しようとした素晴らしいものだと思う。なぜかというと、エリートである基本条件を満たすばかりか、他国のエリートにはみられないスピリットがある。外国の貴族はもちろん戦時中は先頭に立って戦わなくてはならないが、平時は「なにもしない」のだ。すべて非エリート(使用人を含めて部下などにも)に身の回りの世話から、普段の仕事の何から何まで自分では何もしない。むしろしてはいけない、と教育される。

 中国や朝鮮の大官はもっと徹底していて、トイレの始末すらしない。昔、中国の官僚がイギリスの貴族と会見する際、空き時間で彼らがテニスをやっているのを見て「あいつらは身分が低いのか」と聞いたくらいだ。
 スポーツでさえ「身分の低い仕事」に見えたことになる。体を使うことはなんでも使用人がやることと決まっていたからだ。また、いざというときの責任が重大である、とみながわかっているので普段は何もさせないとも言えるし、日本以外はそれが当たり前の世界だったのである。
 
 ところが日本では殿様以外の武士は「すべて自分でやらなくてはならない」と教育される。
 歴史から言えば武士はもともと武装農民であったから不思議ではないのだが、もっとも大きな要因は禅の思想だろう。
 サムライというものは本当につらいものだ。
 平時から緊張を強いられ、自ら身の回りのことをやらされ、もちろん責任は重い。
 外国人研究家がサムライを絶賛するのはその精神性の高さに驚嘆するからだ。禅と武士道がミックスしてこうしてダイヤモンドの結晶のようなエリートが極東の島国に生まれ、そして明治10年の「ラスト・サムライ」で滅亡したということになる。
 
 え?汚職だらけの悪いお武家様もいっぱいいただろうって?
 そう真剣に思っているあなたはおそらくTV「水戸黄門」「必殺シリーズ」「桃太郎侍」を見すぎたかもしれない。

 江戸時代は汚職ということが驚くほど少なかった時代である(なかったとはいいませんが)これは私だけが言い張っているのではなく数多くの文献が証明している。
 時に藩のために年貢の過酷な取り立てをしたサムライもいただろうが、私腹を肥やすということはまずなかった。職務に忠実であっただけで、これは現代でも融通のきかない役所のかた(公務員の方すみません、たとえです)を思い浮かべていただければわかりやすい。
 
 なによりも、そういう疑いをかけられただけで「不覚悟」となり、家門が汚れるのだ。武士は「家」をもっとも重きにおく。第一、お金を貯めるというのは商人のやることで恥ずべきことと教えられる。したがって誰も汚職をやろうとしないばかりか、武士仲間につまはじきになるその行為自体そもそもサムライには理解できない。
 
 TV時代劇は現代の会社組織を武士社会に置き換えて時代考証もなく脚本を書いているので、現代の汚職だらけの機構をそのまま江戸時代に持って行って「今のこの汚職事件は江戸時代の構造ならこうだろうな」と想像で映像化しただけだ。ストーリーとしては現代人は理解しやすいだろう、それに武士の本当の姿を書いたら、面白くなくお話にも何もならない。
 
 だが、そういうことで「武士の魂」をおとしめた罪は重い。
 大事な自国の文化をメディアが視聴率ほしさにめちゃくちゃにしてしまった国が他にあるのだろうか?あれば教えていただきたいのだが。たぶんタイムスリップした江戸侍が今の時代劇TVを見たら、「ぶ、ぶれいもの!」と脚本家はみな一刀のもとに切り捨てられるかも知れない。
 
 今回は医学の話は?・・・すみません、完全に今回は脱線です。最初に「趣味に走るかも」と言ってあったじゃないですか・・・

 そう、お察しの通り私は時代劇を子供のころから見ていました。好きなゆえの苦言とでもいいましょうか・・・楽しんで見ればいいのだが、年寄りは文句ばかり・・・


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2004年6月25日金曜日「外科と大局観」
 今日は将棋の話から始まるので、ルールをご存じない方や興味のない方は意味不明かもしれないがちょっとおつきあい願いたい。
 
 だいぶ昔の話だが、昭和3、40年代ほぼ20年近くにわたってプロの中でも最強だった将棋の大山名人という人がいた。将棋は日本にしかないのでおそらく当時彼が世界最強であっただろう。これは彼がすでに将棋界の最高位である名人から遠ざかった晩年の話である。
 ある日有力プロ棋士どうしの対戦があって、それを観戦している他の若手棋士たちが将棋盤を引き出して来て、違う部屋で一生懸命研究していた。
 これを「継ぎ盤」といって強い棋士たちのなま対戦は若手たちの格好の勉強テキストになるのだ。さて、終わり間近になったが互角の勝負で、どっちが優勢だか、プロでさえもわからない。何人もの売り出し中の若手たちが、かんかんがくがく形勢を論じあっていたところ、一方に最後の勝負手が放たれた。
 これを無視して相手の玉将を詰めてしまえば相手の勝ちである。果たして詰むのか詰まないのか。
 さらにああでもないこうでもない駒を動かして、意見を出しているがやっぱりわからない。そこへくだんの大山元名人がひょこっと顔を出した。
 
 元名人とは言うがやはり力の衰えは隠せない。
 最近の対戦では若手棋士たちにいいところなく敗れることが多く、その場の皆もこの難題を往年の元名人に教えてもらおうとは思わなかったようだ。理論や経験ならともかく、よい手の発見の素早さ、ひらめきなどは若手の方がすでに大山よりすこぶる上手になっていた。
 そこで、若手たちは大山を見たが、あいさつをしただけで再び盤に釘付けになった。大山はのそっと近寄って、若手たちの頭越しにひょいと盤をのぞき込んだいなや、ひと言つぶやいた。

 「それ、詰まないね」

 数人の若手たちは驚いた。
 自分たちの研究熱心と形勢判断には自信がある。ましてや数時間にらめっこしていた彼らより一目しか見ていない大山の方が手を読めるはずがない。
 びっくりしていると大山はコートを羽織って「帰るよ」と言って出て行ってしまった。
 残された皆はあっけにとられたが、思い直して再びその場面を研究すると、夜通し調べたが驚いたことに大山の言うとおり、やはりどうやっても詰まなかった。
 若手たちは改めて大山のするどさに感服したので、後日、彼らの一人が大山に会ったときこう尋ねた。
 「大山先生、あの場面、先生のおっしゃるとおり詰みませんでした」
 「そうかね」
 「でも、どうして先生にはおわかりになったんですか、かなりきわどかったのですがぎりぎり詰まないのです」
 「だって、君・・・あれは詰まない形だよ」大山は当然というような顔をして若手に答えたらしい。

 大山は一生懸命頭の中でその将棋を吟味したのではなかったのだ。豊富な経験とカンで一目で「詰まない」と直感で悟った。
 それがどうした?とお思いになるかもしれない。
 この大山の直感のことを将棋界では「大局観」と呼んでいる。大局観とは盤面全体から立ちのぼるオーラをとらえることができる能力ということと同じかも知れない。若手たちの思考能力は大山の大局観にやぶれたというわけだ。不世出の大名人大山はこの大局観の名手であった。天才的な妙手(誰も思いつかないようなトリッキーな手)で勝つばかりが将棋ではなく、大局観を駆使して見ているものにはあまり面白くなかろうが、地道に不敗の状況を作り出す。彼が現役のころはその地味さも手伝って、対戦成績では大きく勝ち越しているライバルの天才肌の升田元名人に人気が集まっていた。しかし「勝利」という実をとったのは紛れもなく大山であった。

 外科手術もこうした「若手の驚愕」状態が往々にしてある。癌患者に対して、水も漏らさぬ術前検査をして、レントゲン写真やデータを示し、これこれこういう手術で行きたいと思います、と張り切ってカンファレンスで発言すると、「大局観」の優れた先輩先生は一目見て「それは切れないな、切除不能だろう」とぼそっとつぶやく。むっとして「データでは転移や癌の進展はないと思いますが」と反論するが、「まあいい。切れなかった時の説明を術前に家族にしっかりしておけ」と言われる。
 実際、手術を強行してなんとか癌病巣までたどり着くと、やはり転移で手術不能な状態であった、ということも多い。データでは現れなかったその切れなかった根拠はやはり経験を積まないとわからない「大局観」という茫洋としたものだったと気づくのは外科医になって相当経ってからのことだった。

 患者の状態を一瞥で見抜く、この大局観という能力は天賦のものらしく、手術の数ではない証拠に若手でも時々その能力は降臨するようだ。
 手術というものはどんなに勉強してもどんなに経験を積んでも、一つとして同じ状態で進行するということは少ない。易しいと判断できても、思わぬ出血などのトラブルにだって遭遇する。その際、そんな場面には一度もあったことないはずの若い外科医で粛々としてリカバリーしてしまう稀有な才能のDrもいる。
 外科は才能じゃないよ、やった数で決まるさ、と外科医局に入局した際はよく先輩に言われたものだが、ある程度までの技量は皆届くことができるだろう。
 が、そこから先は「大局観」という才能が降臨するか、または最初から備わってるが覚醒するか、でないといわゆる「ゴッドハンド」の域に達することはないのではとつくづく思う。
 
 外科専門医はその能力を豊富に持っていることが条件であろう。
 なにしろ、人の体を傷つけて治療する実にきわどい仕事なのだから。だが、これを一般の方から見抜くことは至難の技となる。

 なぜなら、いまはやりの手術成績公表というのは実に危うさをともなっているからだ。
 将棋の話に戻って恐縮だが、棋士たちには対戦成績を勝率で表わすランキングがある。棋士たちは強くなっていくと勝率が下がり、必ずランキングから脱落する。
 相撲と同じく勝ち続けて自分の地位が上がると、対戦相手が強くなっていくから勝率が下がるのは当たり前である。決して弱くなったわけではないのがおわかりだろう。

 同じ理由で「むずかしい患者さんばかり集まる高度な病院」の手術成績ほど悪くなるのはおわかりだろうか。
 じゃあ、個人で比べれば、との問いには、ずるい「大局観」にたけている外科医は成績が下がりそうな症例には手を出さない、宮本武蔵ではないが「負ける試合はしない」のだ。この医師も抜群の勝率を誇るだろう。が、決して腕はいいかというとそれは定かではない。
 
 それでは上手な先生に手術を頼むときはどうやって探せばいいのだろう?外科医が手術がうまいかどうかを見抜くのは永遠の問題である。コンピュータシミュレーションで点数化はできないし、手術例のレーティングも非現実だしなぁ・・・私達同業者でも公表された手術成績にはいつも懐疑の目で見ているのだ。その人がうまいかどうか・・・それは一緒に手術をしたことのある外科医に聞くしか今のところ本当のことはわからないだろうな・・・残念なことながら。

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2004年7月14日水曜日「Let It Be」
 子供の本棚にある「ちびまる子ちゃん」をぱらぱら眺めていたら、まる子がまる子の母に
 「ビートルズってなに?ずうとるびのまね?」って聞いているコマがあった。そして、まる子の母が笑って答えるに
 「ビートルズはただの歌手じゃなくて、音楽家で(バッハやモーツアルトのように)歴史に残ると思うよ」
 という話がのっていた。(「ちびまる子ちゃん」11巻より)
 
 私もまるちゃんのお母さんに全く同感なので思わずほほえんでしまった。ビートルズの話を始めると、たぶん終わりがなくなってしまうので、不本意なのだが有名な一曲を取り上げてまたまた強引に話をしたい。(ビートルズ知らない方すみません・・・)
 
 ビートルズに興味のない方でもほとんどの人が知っている彼らの名曲の一つに「レット・イット・ビー」がある。
 
 ビートルズ最後のシングルゆえ、世界中でヒットした。
 直訳するとこのタイトルは「されるがままにせよ→なすがままにせよ→なるようになれ→どうでもいいや!」という風のいずれかに解釈され、ビートルズ解散直前の最後の作品だけにそのタイトルの意味は人間関係が壊れたビートルズの中で作者のポール・マッカートニーの捨てばちな心情が歌われていると言われていた。
 実際、音楽関係の本や解説でもそのように記してあり、私もよく曲を聞いていた中学生のころは
 「ふーん、なるほどね」という気持ちではいた。
 あまり、深く考えなかったが、だいぶたったある時ふと強い疑惑が生まれた。
 曲を知らない方はなんのことかさっぱりわからないでしょうが、この曲は完全に教会音楽の形をとっていて美しいバラードである。
 評論家やミュージシャンたちからはそのデコレーション的なくささが鼻につくのか割合不人気であるが、日本では宗教風の物珍しさもあり、当時もっとも売れたビートルズナンバーであった。消滅するビートルズの挽歌としては最適だったかもしれない。もちろん私も好きな曲の一つである。

 疑問というのはこの「Let It Be」の意味するところが「後は野となれ山となれ」、といった至言格言の中でも低レベル(といっていいだろう)と同格のようなこんな解釈でいいのだろうか、と思い始めたことだ。
 レノンはともかくマッカートニーはカトリックの家に育っているし、あえてこの意味なら、わざわざ荘厳な教会音楽のようなメロディをつけてまでして、「投げやりな気持ち」を歌うのだろうか?
 本当にそうなら、彼ならわりと好んで作るたたきつけるようなロックのリズムを与えているような気がする。
 
 余談だが、実際、もう一人のメンバーのジョージ・ハリスンはこの時期なにかにつけて衝突していたうるさいポールに対し皮肉たっぷり「Wah Wah(ワーワー=ギターの音を変換するワウワウという道具と、おまえワーワーうるさいよ、という意味のしゃれ)」という曲をロックのリズムで書いてソロで発表している。
 
 レットイットビーに戻るが、歌詞の中で繰り返し歌われるこのレット・イット・ビーという叡智の言葉を与えてくれると書かれている「聖母マリア=Mother Mary」は彼と14歳の時に死別した母・メアリ(Mary)マッカートニーを明らかに意識して、聖母と実母を重ねているに違いない。
 私は宗教のことはよくわからないが、キリスト教圏の人々は行動や思考を無意識にしばられていると思う。
 今までの解釈「どうにでもなれ」でこの名曲を聴いてしまったら、曲想といい、亡き母をしのんでいることといい全く整合性がないのではないか?

 そこで、このLet It Beを私は勝手に(あなたは十分に力をつくした。あとは神の)「おぼしめしを待ちなさい」という純宗教風に解釈したいのだ。
 こうすればそのときポールがおかれていた状況に照らし合わしても、聖母マリアや亡き母がささやいてくれる言葉にしても無理がなく、格言で言うと「人事を尽くして天命を待つ」という非常に格調の高い意味になる。
 日本風には「絶対他力」の浄土真宗的思考とも似通ってくるので(正確にはだいぶ違うが)割と受け入れやすくすっきりする気がするが。
 ネイティブな英語に堪能な方にお願いしたいのだが、「Let It Be」の歌詞でこのような解釈が成り立つのかどうか、ぜひ教えをこいたいものです。が、「そんなのぜんぜんダメだよ」と言われても実は私はちっともかまわない。

 古来より詩の解釈などは受け手に完全に任されているのだから。
 それが、自暴自棄であるか、泰然自若としているのか、どっちであろうがうたった本人の心情はもはやどうでもよい。曲に乗った詩を聞き手がどう受け止めるかの態度は誰にも決められない。ビートルズナンバーにはソロになってからの作品を含め(特にジョンとジョージに多い)このほかにも心を打つ詩曲が多い。現在はCDもパソコンで作れるし、favorite songsを集めて「自分で聞く分」には罪にならないし。
 
 不治の病などのつらい運命を自覚しなくてはならない時、どんな至高の知恵でも太刀打ちできないときや、そして、たとえば心を通わせあった患者さんが死出の旅路に出るとき、または自分が死の床につくとき、私は自分流の勝手に解釈したこの「Let It Be」やビートルズナンバーを聞くだろうし、また聞かせてあげたい。ホスピス機関でもぜひ取り上げていただきたいが趣味を押しつけるわけにもいかないだろうな。クラシック音楽も格好はいいんだろうが、あまり思い入れもない(笑)し、まんまセレモニーホールみたいだし、ロック愛好私的にもどうもいただけない。

ん?でもそんな強引な解釈でなくても、すんなり

川の流れのように
おだやかに
この身をまかせていたい

唄:美空ひばり「川の流れのように」はどうですかって?

この方がいい?ふーむ・・・なるほどこれも・・・自然ですな。リストに挙げておきましょう(笑)


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2004年10月15日金曜日「ラーメン大王〜インスタント編」
 ラーメンが好きである。家では「ラーメン大王」とまで呼ばれている。インスタントラーメンもこの世でこんなにうまいものがあるかというくらい好きである。味にうるさいわけでなく、作り方に少々のこだわりがあるくらいだ。メーカーや銘柄はこだわらない。しいて言えば最近の製品より古典的ラーメンが大好きである。ただし、チキンラーメンはいじりようがなく、これはカップラーメンのたぐいと同等に見なしている。これら即席麺5袋パックで特売なら、有無をいわさず即買いである。
 
 まず水の量、袋に書いてある量よりやや多めがよろしい。これはいろいろ試してみたが、私にとってはやや薄めにスープを溶いた方が美味と確信した。野菜はタマネギ、キャベツなどの歯ごたえのあるものがよく、炒めてはいけない。煮込み野菜が私の選択である。もし、炒めるならゴマ油を使うのだろうが、サラダ油は野菜がくちゃっとなるし、スープの香りを壊してしまう。そして、どうしても煮込み野菜がいやなら、油を使わず、さっと煎った方がまだましかも知れない。モヤシは好きずきだが私は入れない。実はモヤシは一袋がやけに多くて、使い切りにならないためだ。
 鍋を火にかけて、水から野菜を煮込むが、タマネギは存外インスタントにあうからぜひ試していただきたい。そして、そのまま麺を入れる段になるが、麺をゆでる時間はやや短いというより、できるだけ短い方が私にはよろしいようである。インスタントラーメンは乾めんタイプのカレーうどんや「マルちゃん」のたぬきそばなどをのぞき、私のようなこらえ性のないものにとってすぐゆであがるようにできている。サッポロ一番やチャルメラなど古典的ラーメンは、もういれたと同時にかき混ぜ、すぐに火を止めるくらいの覚悟が必要だ。
 ましてやトッピングの卵や電子レンジで温めるチャーシュー、そして、今日は贅沢をするぞっ、と決めたときの豚角煮などは鍋のとなりに置いておき、今やおそしとスタンバっておかないと、せっかく計算し尽くしてゆでた「アル・デンテ」麺が台無しになる。でないと、腹が立つほど腰のないふにゃふにゃの麺となり、のちに食べてるそばから歯ごたえがなくなり、怒りを感じるほどのジャンクフードと化してしまう。
 
 スープは間違っても火をつけたまま入れてはいけない。すぐ麺にスープの味がうつってしまい、からめてすすると異常に塩辛く感じる。
 高級感あふれるものの中だが、インスタントのくせにスープが3つくらい分かれているものは論外である。そんなものがインスタントなものか!そうまでしてこだわるなら私はラーメン屋さんへ行って食べる。(でも、じゅうぶんこだわってるって?)手早く麺と野菜をかき混ぜたら、生卵を鍋の端から落とす。絶対に黄身を壊してはならない、もし失敗したら最初から作り直すくらいの気持ちで慎重に卵を割る。
 
 鍋からラーメンどんぶりに移すことは、私はしない。どんぶりを温めておけばよいのだが、実はそれが面倒くさい。かといって暖めておかないと、これもラーメンの温度が下がってしまう。猫舌の方はそれでもよいが、熱くないインスタントラーメンを食べさせられると、どんぶりをひっくり返したくなる。
 
 薬味に使うコショウは醤油ベースならブラックペッパーがよろしい。みそなら迷わず七味唐辛子である。ラー油は勧めない。七味の方が風味がよいからだ。
 そして、場末のラーメン屋にどんと置いてあるGABANのホワイトペッパーは魚介類ダシベースのインスタントラーメンには合わないのではと思っている。
 豚骨味はこのいずれもあわず、ショウガもしくは高菜がベストだ。当然高菜は少し暖めておくか、常温にしておくが、面倒なのでもっぱら紅ショウガで間に合わす。塩ラーメンは「カレー粉」をほんの少し入れるとバカみたいに旨くなる。ネギは万能ネギを刻んだものをぱっと散らすのがよい。というのもタマネギを入れているので、長ネギをさっとでも煮込むとネギのぬるぬる感がかなり増えてしまうためだ。

 さて、いくら唇と面の皮があつい私でも、鍋からずるずる食べるわけにはいかない。そこで、テーブルが飛び散ってあまり喜ばれないが、みそ汁をいれるうるし椀に移しながら食べるのがおすすめである。それにまずスープを少しいれ、菜ばしで鍋からわんこそばのように移しながら一口サイズで食べるのである。このとき間違っても先ほど滑らせていれた卵を破壊してはならない。スープの味がぼけてしまうのだ。そっと眺めながら丁寧に麺を食べる。さて、ひとしきり食べたら、鍋の端とスープの余熱で極微半熟となった先ほどの卵をお玉ですくい取る。少量のスープと共に一口で召し上がれ。満足することうけあいである。私はこうして医学生時代、金欠時を原価130円くらいの食事で乗り切った。
 
 さて医学の話?そうでした(笑)
 ここまで旨いインスタントラーメンを嫌う勢力がある。
 言うまでもなくセレブな見地からではなく、「体に悪い」という理由である。化学調味料(以下=化調)、塩分、ポリスチレン(カップラーメンの容器)から出る環境攪乱ホルモンなどである。カップラは今回言及しないので、化調について取り上げたい。

 言わずと知れた即席麺の味のベースはご存じ化調である。以前から化調は「体に悪い、発ガン性がある」などといわれているが、「少量ならいいよ」と各家庭での認識はたぶんこんなところだと思う。

 化調の主成分はグルタミン酸ナトリウムとイノシン酸だが、大量に摂取すると顔面紅潮、しびれ、乳幼児では脳発育障害が認められるという論文がある。ナトリウムを含んでいるので、塩分(塩化ナトリウム)を多くとること同じになる。米国で以前「中華料理店症候群」と呼ぶ疾患が話題になり、中華料理を食べた後、舌のしびれ、めまい、頭痛、くびから胸にかけての灼熱感を起こす人がいることが認められた。大量摂取と高温(250度以上)で調理すると発癌性が出てきた。イノシン酸は旨み成分の核酸だが、これは痛風の原因になる。などなどである。これが本当ならこの世からスナック菓子とラーメンはなくさなくてはならず、化調が使えなくなるなら中華料理も今の3倍くらい高くなってしまうだろう。
 
 結論から言うと、アメリカ医学会とWHOが調査研究に乗り出し、発ガン性、乳幼児の影響、顔面紅潮などの「中華料理店症候群」はすべて「医学的根拠に乏しく、先行論文も科学的解析に問題がある」となった。
 すなわち「化調に体を悪くする要素はない」と結論したのだ。
 そして、気になる子供への影響も否定された。第一、グルタミン酸は母乳に大量に含まれる。ちょっと考えても体に悪いわけがない。
 中華料理店症候群は同じだけ食べてもすべての人がなるわけでなく、さまざまな食材がはいる中華料理なので化調のためでなく、個々の症例を調べた結果、個人の食物アレルギーであろうと結論されたのだ。
 発癌性を述べた論文に関しても、高温で調理した際、タンパク質が変性しそちらの発ガン性がマスクしてしまった可能性がある。(おこげなどもそうである)
 また、もう一つの理由であった石油精製だった化調の精製方法が現在は酵素発酵法に変わったため、石油発癌の可能性はあり得ないとされている。
 残ったマイナス要素の塩分(ナトリウム)に化けてしまうことと痛風のもと、この二つは本当である。インスタントラーメンが好きな小学生は肥満傾向にあるという結果は最近の論文に載っていたが、これも野菜を混ぜたかどうかは不明である。
 
 だから、私のように野菜をたっぷり煮込み(もっとも即席麺に少ないとされる食物繊維を補う)、卵を落とし(卵はビタミンC以外はすべてのビタミンおよび、タンパク質を含む、半熟のままがキーである、体に吸収ももっともよくビタミンもタンパク質も壊れない)スープは半分以上残す。(麺にも塩分が含まれるので表示の食塩分5gの2/3くらいになる=3gほど)お湯で麺をゆでるだけでは当然いけないのは言うまでもない。そして、痛風の方は「食べ過ぎに」気をつけましょう。
 
 これで、あとは唯一の弱点のビタミンCをハイシーでとれば十分である。カロリーは一食600kcalほどで、ファストフードののバーガーポテトを食べてしまうとこの1.5倍ほどのカロリーになってしまうのだ。セットでコーラなんぞ飲んだらもういけない。インスタントラーメンが健康食であると納得いただけただろうか?
 
 昭和33年、日本が作り上げた世界に誇る保存食インスタントラーメン(これがチキンラーメン)を栄養面や根拠のない中傷で毛嫌いしてはいけない。私は家庭を持った今でもこのラーメン健康理論(?)を振り回し、包丁を握り、うんちくをたれながらインスタントラーメンをゆでるのだ。
 家人からはすごくいやがられているようだし、私のほかはあまり食べないようだが・・・それでもまあいい。
 
 ちなみに私は焼きそばも好きで、これの作り方にもひと言ある・・・え、もういい?およびでない・・・はい、またいずれ・・・
 (私はいっさい企業とつながりはありません。純粋な一ファンです。これを読んだ即席麺の会社の方、粗品などは送らないでくださいね・・・)


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2005年2月25日金曜日「紙上の推理」
 NHK大河ドラマは今年は「義経」である。小中学生の頃は大河ドラマをよく見ていたが、最近は興味が幕末明治維新にあるので、去年の「新撰組」は見たのだが、それ以外の時代はあまり見ないことが多い。
 それはともかく、今回の源義経の相手の統領は平清盛である。
 歴史をひもとくと、清盛はやまいで急死するのだが、以後、坂を転がり落ちるように平家は没落する。彼は死に臨んで、東国で勃興する頼朝をにらみつつ、さぞかし無念だったであろう。古今権力者の死はそのまま歴史を大きく動かした。
 歴史にイフはないので、「もしも命を落とさなかったら」とは考えないが、医師の端くれとして「どうして死亡したのか」には興味がある。
 清盛くらいの大物になると文献に死に至る模様が克明に記されている。平家物語や吾妻物語にのっている清盛の発病は64歳の春、旧暦二月、突然の頭痛・高熱からおこったそうだ。はやくも翌日には重体に陥り、呼吸困難が出現し、皮膚がまっ赤になり、「比叡山の水をかけてもお湯になる」という大げさな描写があるほどの発熱・熱感であったそうだ。そのまま容態は回復せず発病からわずか6日で息を引き取った。

 清盛の命を奪った疾患とはなんだったであろう。

 吉川英治は「新・平家物語」の中で町医・麻鳥(あさとり)の口をかりてマラリアではないかと推理する。実はこのマラリアが一般的に広く清盛の死因として受け入れられている。
 
 その根拠は清盛をおそった突然の頭痛と41度を越えたらしいすさまじい高熱だ。
 医史学や感染症を専門に研究されている医師たちもこの病態をみてほとんどマラリアを筆頭にあげている。さらに、蚊取り線香で有名な企業キンチョウのHPにも
 「清盛がマラリアにやられたので蚊をあなどってはいけません」
 と記してある。
 
 確かに日本にもマラリアを媒介するハマダラカが中世には存在し、マラリアの症状であるさむけと同時にあらわれる急な発熱を「おこり熱」と呼んで恐れていた。
 1959年に最後の日本産(土着)マラリアが確認された以降日本では姿を消し、今では大発生地域である東南アジア旅行者らが持ち込む輸入マラリアしか存在しない。
 
 が、私はふと疑問に思った。
 清盛がかかったとされる旧暦二月(今なら三月)こんな時期に日本に蚊はいるのだろうか?
 マラリアの潜伏期は9〜14日、清盛が刺されたとしたら、さらに寒い時期ではないか。しかし、マラリアには以前かかって、治らずにそのまま発作を繰り返す再燃と呼ばれる状態がある。清盛はこれの再燃で死亡したのではないかという推理も成り立つ。

 ならば前の年の夏に刺されて感染したとしよう。その後のマラリア原虫は肝臓などに潜り込み、再燃だとしたら一定の期間おきに発熱を繰り返すはずである。従って、先シーズン清盛が感染したら、冬までに何度も熱を出したはずなので、本人も回りもその病状に気づくか、記録するはずだが、没前年史書にそのような記述はないようだ。
 
 ある病気が誰が(老若男女)どこで(暖かい・寒い地方か)いつ(春夏秋冬)かかりやすいかの傾向を調べたものは疫学と呼ばれている。
 その疫学上、医書にはマラリアは今でも
 「ハマダラカの発生する夏期、湿地で多い」
 と記載されている。そして、関西地方に多かった日本土着マラリアは三日熱マラリアと呼ばれており、成人がかかると割と軽く死に至ることが少ない病気だった。
 この二点をとって清盛はマラリアでなかったというのが私の結論である。(清盛が始めた日宋貿易船で蚊を乗っけてきてしまった可能性はあるかどうかわからないが・・・でも冬だしなぁ)
 
  歴史作家海音寺(かいおんじ)潮五郎は脳出血ではと推論している。
 確かに体温調節をつかさどっている部分の脳出血は頭痛・高熱の説明がつく。清盛はやや肥満気味で、晩年は怒りっぽく、源氏の反撃が東で盛んになり大きなストレスを抱えていた。寒い時期でもあるし高血圧をこじらせ脳出血になった可能性は十分にある。
 が、この場合、昏睡に陥るのがほとんどで多くは「いびきをかいて意識もなく人事不省」になる。そのような記載はなく、また、後世の作り話かもしれないが、最期に遺言までしたというのではたして脳出血はどうか?

 それでは、ありふれているが冬期に最も多い「カゼをこじらした」というのが考えやすいのではないか?突然の頭痛・発熱からはウイルス性の気管支炎から毒性の強い肺炎球菌に冒された、としても矛盾は少ない。が、それにしても症状が激烈すぎる。それなら史書に「カゼを数日ひいていたようだがそれから急に悪くなった」という記載があるはずだが、それは見あたらずボツだろう。

 この系統で一番怪しいのは「インフルエンザ」である。これなら数時間で症状は完成するのでありえるかも知れない。そしてインフルエンザ脳症で死亡という筋書きもありだ。
 だが、これも発疹がでるほどの皮膚症状はあまり見られない。他の発疹を出すウイルスとの同時感染ならばあるが確率的には少ないだろう。
 
 この手がかりの「皮膚がまっ赤になった」ということから私は劇症型「溶連菌感染症=猩紅熱」だったのではないかと思う。溶連菌感染はご存じの通りありふれた病気で初春ならもっともかかりやすい。このサイトのトピックスでも記したが、子供に多いが大人でも結構見かける。カゼ症状も全くなかったというならそれもうなずける。全身型の溶連菌劇症感染は放置すれば現代でも命が危ない病気なので治療法のなかったこの時代には、数々の強運で危機を乗り越えた清盛といえども一発でアウトだろう。

 全身皮膚がまっ赤になる高熱の溶連菌感染のお子さんは年に数人見受けられる。診断はのどの綿棒検査で数分もかからない。ペニシリン系の抗生物質を飲むだけで、ほぼ翌日には熱が下がり元気になって数日で発疹も消えてしまう。
 清盛がインフルエンザだとしても、皆さんもほぼ認知しているタミフルという特効薬が劇的に効く。どちらか迷ってもこの二種類のカプセルを清盛が飲めば・・・当時の人々は元気になった清盛を見て奇跡を信じたことだったろう。
 いや、なにも千年前の人を例に挙げる必要もなかった、抗生剤の生まれる前、今からたった60年前の感染者も救えなかったことを思えば、インフルエンザ・ウイルスや溶連菌は人類誕生後どのくらいの人々の命を奪ってきたのだろうか。最近の外来で交互にこの二つの薬を出すときふと頭をよぎるのだ。(両方ともとってもはやっています)

 史書や小説を読んでいくとあら探しばかりいつも始めてしまう。特に登場人物の病気の描写が出てくるとその症状を読みながら、このようにあれこれ想像してしまう。それも私のもう一つの読書の楽しみ方であり、臨床練習のつもりなのだが、果たして役に立っているのかどうか心もとない限りではある。


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2005年7月25日月曜日「シビれる史上人物・・・その1(上)」
今日はコラム外伝、シビれる史上人物伝その1であります。(いよいよ趣味に走り出したわけであります。スミマセン)

 「そのとき歴史は動いた!」風ですが・・・悪しからず

  私は歴史が好きなので、よくその手の本を読む。歴史は事実であるかどうかわからないことも多く、もはや確かめようもない。しかし、歴史とは人物を知ることだと思っており、その人物がとった行動をたどればおのずからその性格がわかり、さらに周辺のいろいろな逸話がその人物の輪郭を鮮やかにしてくる。そのようにして本を読み登場人物に感情移入することが、私の楽しみ方だ。

 そんな史上の友人達のなか、たとえば誰に会って話を聞いてみたいか、と問われれば、数多くて一人に絞るのは難しい。当然、知・仁・勇を兼備したさわやかな人物が好きだ。それに時代背景を加え、当時として出色の人物に惹かれる。
 この「時代背景」というしばりは大きい。時代によっては倫理観は大きく異なるからだ。たとえば「決して主人を裏切ってはいけない」という武将の美徳は江戸時代机上のサムライ魂ができるまでは倫理感覚としてなかった。それまでの武将は有利な方に味方するのはまったく当然のことで、一門や先祖代々仕えてきた宿老などを除いて、「家」を存続させるためには平気で裏切りを繰り返した。
 現代でも、選挙に当選するために新党結成や集合離散をいとわない政治家にも一脈通じるものがある。だから、戦国時代に「義」を貫いたといった行動は稀有といえる。さらに友情(フレンドシップ)という言葉はその真の意味でありえなかった。
そんなある時代、天下分け目の大いくさである「関ヶ原の戦い」でその美学を貫いたある武将のことはあまり知られていない。
 
 大谷刑部少輔吉継(おおたに、ぎょうぶ、しょうゆう、よしつぐ)という戦国末期の武将がいた。(以後、刑部)彼は定型的な戦国武将の思考を持たず、それまで見られなかった(「走れメロス」のような)親友のため友情によって命を捨てた。刑部こそは歴史上あまり有名ではないが、彼の親友とは史上名高い石田三成のことである。
 
 刑部は三成と共に豊臣秀吉の懐刀として活躍した。秀吉は天下統一にいたる戦争の仕方でそれまでの常識を一変させた。
 名乗りあげての一騎打ちがいくさの主体、全軍うちかけの野戦がメインだった室町時代までの戦いぶりを、秀吉の師匠ともいえる織田信長は物量作戦と機動力で破壊していった。
 その戦術も画期的であったが、それでも信長は難攻不落の要塞、石山本願寺攻めに手を焼いた。秀吉は本願寺攻めには加わっていなかったが、彼本人は信長のやりようと大きく意見を異にしていただろう。
 なぜなら、彼はいくさは物量がやはり主であると思っていた上に、調略(敵の寝返りを誘う)と兵站(物資輸送)がもっとも肝心と考えていたからだ。こうして、秀吉が攻略した戦いも随所に見られる。
 その、秀吉のいくさでは三成は兵站を主に担当し、刑部は調略を得意とした。というと、刑部が口八丁の印象を与えるだろうが、調略は「心性さわやかで誠実」でないと絶対に成功しない。それは、うさんくさいやつが調子のよいことをいくら言いに来ても誰だって頭から信用しないことでわかるだろう。刑部の律儀剛直さ、真面目で決して嘘をいうことのない性格が当時の武将達もみな知っていたので、敵方といえども彼の言葉に耳をかたむける。
 
 秀吉は刑部が調略に成功するたびに「こたびのいくさの一番の功はそなただ」と誉めそやした。若いときの秀吉は信長と違って、できることならあまり血を見たくない性格でその点でも刑部の力は重宝だったに違いない。なにしろ秀吉は農民上がりで子飼いの郎党などはすくなく、それでも加藤清正や福島正則、片桐且元など、一騎がけの猛将は思いつくままあげられるが、知将と呼べる信頼のおける部下は刑部しかいなかったといえる。
 
 三成のいくさ下手は秀吉はとうに見抜いており、もっぱら軍を率いさせることをさせず、後方支援に没頭させた。もちろん、これが三成の天職であり、それを見抜いてそうさせた秀吉もえらかった。しかし、刑部こそは次代の豊臣家の重鎮と考えていた節がある。
 
 ある夜話に記録が残っているが、秀吉はあるとき、刑部のことをほめた。悔やんでいるのだから、きっと晩年の話だろうが
 「刑部には気の毒なことをした。ずっとわしのそばでつかってきたが、今思うことは刑部に百万の大軍を指揮させて、わしはそれを高見の見物をして彼の采配を見てみたい。」
 と言ったという。回りで聞いていた武将達はことごとくうなずいたとのこと。
 
 なぜ嘆いたかというと、刑部は不幸なことに秀吉の晩年の頃から不治の病に冒されたからだ。武将としてこれからという30歳頃から発病したハンセン氏病であった。完治は難しく、現在でも差別問題などで有名なこの病だが、当時でも「死病」との認識があり、秀吉はもとより刑部の周囲はみなこの不幸を嘆いた。先ほどの秀吉の逸話はたぶん刑部の発病後と思われる。それでも、秀吉は刑部の能力を高く買い、発病後も体力が続く限り、九州島津征伐、朝鮮出兵などでも、刑部の後方担当能力を高く評価し、刑部を頼った。
 
 そのころから刑部は常に白布を顔の前に垂らし、ハンセン氏病のために醜くなった顔をさらすのを嫌った。
 ある時、大名一座の茶会があった。刑部は心ならずも出席せねばならなかったが、あからさまではないが、だれもが刑部との同席をいやがった。今でもそうだが、当時でも茶会は一つの茶碗を回し飲みするからだ。刑部が触った、そして口をつけた茶碗を列席の大名達は自分の前に回ってくると露骨にイヤな顔をした。作法通りにするものも少なく、明らかに飲んだふりをしたものもいた。
 当時、ハンセン氏病は伝染病という認識があり(実はハンセン氏病は正常の免疫力のある大人には決して感染しない)刑部がこの席にいると言うだけで、口を覆うものもいた。刑部はこの光景を見て
「これほど恥をかかされるならば、この場で死んだ方がましだ」
 とさえ思った。
 その刑部の窮地を救ったのが、三成である。
 「拙者はいささかのどが渇いた。ご無礼つかまつる。」といい自分の前に回ってきた刑部からの茶碗をぐっと一のみした。これで茶碗がリセットされ、刑部も救われた。刑部は三成に対し心の底から感謝し、回りのものも胸をなで下ろした。旧知の間柄であった二人は言葉を交わさずとも堅い「友情」で結ばれていた。
 
 三成は感染が怖くなかったのだろうか?いや完全合理主義者の三成は数十年親しくつき合ってきた刑部から、いまさらこれくらいで感染することもなかろう、と割り切っていたと考えた可能性が高い。それなら親友の刑部を救ってやろうと思ったに違いない。たとえ、そのくらいの気持ちでも、刑部は三成に感謝してもしきれなかった。この思いが後の彼の行動を決めてしまう。
 
 その後、刑部は病がすすんだため、秀吉を補佐する中央の仕事から身を引く。北陸の敦賀5万石を与えられてその領地経営に専念した。全くの新知行地であり、その統治は困難を予想されたが、そこでも配下や人心の掌握に長けて、立派に国をおさめた。秀吉はそんな刑部を心から惜しいと思ったはずである。
 
 秀吉が没して、次の天下人第一候補、徳川家康を中心に時代は動き始めた。家康は秀吉派を切り崩したり、三成を挑発したり、ついには会津にこもり、公然と家康に敵対する上杉景勝を討伐するという名目で東上軍を編成して京から旅立った。もちろんこれは上杉以上に敵対する三成に対しての高等戦術で、本気で上杉を倒すつもりなどなく、留守の間に三成に反家康軍をまとめて立ち上げてもらうための誘いの隙であった。
 さて、刑部も家康の招集に応じて上杉討伐軍に加わるつもりであった。実は刑部は家康を高く評価しており、まだ幼い豊臣家の嫡男秀頼を家康の摂政で補佐させ豊臣政権を存続させる構想を持っていた。
 刑部は敦賀から兵をまとめ、途上、三成の居城、近江佐和山城の近くを通った。(この時点で三成は中央政界から失脚しており居城で謹慎中であった)三成に一言挨拶しようと立ち寄ったとき、驚くべき企てを聞かされた。三成はあえて家康の罠に飛び込むという。

 「家康を討つ」と。三成は刑部に事前に相談すればきっと反対されると知っていた。が、刑部こそは相談せずとも味方をしてくれるものと思っていた。だから、この場まで黙っていたのだ。刑部は愕然とした。その明哲な頭脳で「その作戦は失敗するだろう」と一瞬で見抜いたからだ。
 
 なぜなら、三成には家康のような人望はなく、どううまく作戦をたてても、家康に抗すべきもないし、なにより家康と三成ではいくさの場数が違う。家康は信長と盟友であり、数多くの文字通り修羅場をかいくぐってきた歴戦の勇士だ。一方、三成の戦歴といったら豊臣家配下で圧倒的有利ないくさを経験したくらいで、その両者が戦うとなったら一も二もなく家康の勝ちと判断するだろう。

  しかし、刑部は三成を見捨てることはできなかった。
 
 茶会の恩返しといえるかも知れない、が、そんなことで命を捨てることでもない。実際、大名が命を捨てるということは一族郎党、領国民すべてを巻き添えにするということだ。たとえ刑部が三成をこの場で見捨てても誰も非難しなかっただろう。敗れると知りながら、刑部はここから彼の能力の全力を尽くす。まさに彼が戦死する「決戦関ヶ原」までの刑部の三成に対しての尽くしようは白眉であった。(続く)
2005年7月27日水曜日「シビれる史上人物・・・その1(下)」
 朋輩(ほうばい)という「同期・同僚」に近い言葉は古来からあった。
 これならば武将同士でも、いくらでもありえたのだが、それでも希薄な関わりであることに違いはない。現代でも学生・幼なじみの付き合いは一生続くことにくらべ、会社に入ってからの朋輩は出世やしがらみなどで、真の友情が育たない環境によく似ている。
 しかし、三成と刑部は庶民の中で昔から言う「友垣(ともがき)」の間柄だった、これが大名同士、ということが稀有なことであった。

 三成の企てとは秀吉亡き後の跡継ぎ秀頼の天下を奪おうとする徳川家康をたたきつぶすこと、それのみであった。そのおびき出しはすでに済んだ。家康は上杉討伐のため、会津に向けて東下している。あとはこちらに味方をする大名をできるだけ引き込むことである。
 
 しかし、刑部の見るところ、三成の作戦などはとうてい絵空事であった。
 それほど家康の力と人望は巨大である。刑部は本意ならず三成に味方をすることを告げた上、親友なればこその苦言をいった。
 「おまえほど傲慢なものはいない。おまえが前に出てしまえば、豊臣に味方をするものも徳川についてしまう。かならず、毛利か宇喜多(反徳川の筆頭で秀吉が後事を託した五大老のうちの二人)にまかせて、お前はその下につけ」
 辛辣だが、的を射た意見であった。三成はその愚直な真面目さから、融通がきかない、尊大に見える典型的官僚性格であったため、同僚であるはずの豊臣武将達からも虫けらのように嫌われていた。

 三成は刑部のその提案に素直に従い、毛利を西軍(反徳川)盟主にする。
 そして、刑部は三成の西軍における総参謀長的役割を請け合った。
 
 刑部はやっとこれで家康と一戦できるまでの形の最低条件は整ったとは思った。が、勝てるとは到底思っていなかった。それをどこまで勝ち目のある戦いに持って行けるか。刑部はその時から、知略すべてを三成に捧げる。

 今の岐阜県を境に日本をほぼまっぷたつにわけた東西大決戦、刑部の戦略眼では主戦場は濃尾平野である。
 関東に行き、反転して帰ってくる家康の東軍の攻撃ルートは3本あった。
 家康は自らの主力を東海道を進ませ、嫡子の秀忠に兵を分けて中山道を進ませ、関ヶ原を目指す。これが二つのルート。そして、越前加賀の大名前田家には北からのルートで参戦を指示した。
 
 刑部は思いを巡らす。作戦によって、この東軍の力を大幅に削ぐことが急務と考えられた。そして歴史は刑部の思惑通りに東軍の大部分の力は半減、いやそれ以上に無効化させたことを証明している。
 
 家康の主力が戻ってくる東海道、これは止めようがない。
 中山道には刑部の娘が嫁いでいる婿の真田幸村、その父の真田昌幸が信州上田城に籠城している。むろん、刑部は幸村を通じて上田城抗戦を激励する。
 
 真田昌幸はいくさ巧者で、家康の嫡子秀忠軍の大軍を引きずり回し翻弄し、結局この軍をまるまる関ヶ原の戦いに間に合わせなかったことは史上有名である。
 
 もう一本の北のルート、北陸道は前田家の大軍が南下を始めたが、刑部の調略の腕が冴え、ルートの豪族や小大名を味方につけ、さらに前田分家は豊臣によしみを通じており、前田軍の背後を襲わせる手はずを整えさせた。刑部の調略で北のルートは封殺したのである。

 そして主戦場関ヶ原での陣形は刑部が采配をふるい、東軍を包み込むように配置し西軍の必勝型であった。順当に戦ったら、家康は全滅していたに違いない。
 しかし、これほど、用意周到に事前準備をしても、それでも刑部はこのいくさは勝てないと知っていた。

 なぜなら、自分より一枚も二枚も上手の家康が西軍に「調略」を仕掛けていないわけがない。必ず戦闘が始まるや、裏切りが出るだろうと確信していた。それは刑部が関ヶ原に布陣するとき西軍主力の大名・小早川秀秋の前に立ちはだかるように陣をしいたことでもわかる。さらに、その味方であるはずの小早川に向け柵を作り、鉄砲隊を配備した。小早川秀秋は太閤秀吉の甥にあたる血筋だ。が、その心底はわからない、として、刑部は「裏切る、裏切らないとしても戦力にならぬ」と疑っていたからに相違ない。
 
 関ヶ原の戦いは朝靄の中、始まった。西軍がみなまともに戦えば楽勝であっただろう。が、この戦いの中で西軍の士気は奮わず、主戦場には石田三成、宇喜多秀家、小西行長、そして刑部の軍だけが死力を尽くしていた。島津も西軍だが局外中立を保ち、毛利、小早川の大軍は日和見を決め込んで全く動かなかった。一方、東軍は全力をあげて左翼の将、石田三成に襲いかかる。
 ところが、刑部は右翼で小早川と宇喜多の間にあり、自軍の3倍もの数の敵勢に当たって有利に戦いを進め、それどころかあちこちで蹴散らし始め、東軍の一角を撃退していた。
 その刑部の奮戦を見た家康は
 「刑部の死にぞこないめ!くちおしや。・・・それに、金吾(きんご)にたばかられたわ。(金吾は右衛門督の唐名、小早川秀秋は後に中納言に昇進するが最初に任官したその官位があだ名となり、金吾中納言と呼ばれていた)」とののしった。
 小早川秀秋は大軍を率いているゆえ三成、家康どちらからも好条件で誘われていた。家康は秀秋を関ヶ原以前より優遇しており「西軍に属していたとしても金吾は必ず寝返る」とよんでいたのだが、戦闘が始まって以来全く兵を動かさず、その意外な沈黙にあせっていた。
 金吾にしてみれば
 「最後に勝ちそうなほうに味方すればいい」
 と思っていたに違いない。だから、戦場からはるかかなたに陣取ったまま動かない。戦闘では圧倒的な不利にある東軍の中、その金吾の心を家康は
「このままでは金吾は西軍につく」と見抜いた。

 家康は刑部の奮戦を見て、東軍の全軍が崩れる寸前、金吾の臆病な心を撃つことを決意した。

 「金吾の陣に鉄砲を撃ちかけよ」

 後に言う、「問い鉄砲」である。回りの旗本は仰天した。そんなことをして逆上した金吾がもし東軍に攻め込んだら、東軍は大敗北を喫するだろう・・・しかし家康は人間の心を読むことについて右に出るものはいない。金吾の行動は彼の読み通り、家康の手のひらの上であった。
 金吾はそれまで鼻歌交じりだったいくさなのに
 「家康が怒っている」
 と、にわかに恐怖し、恐れたあげく狂ったように全軍に命令した。
 「敵は大谷刑部なり!」山を降り、刑部の陣の横っ腹に突撃した。関ヶ原の戦いはこの一武将の子供のような恐怖心のためにあっさり勝敗は決まってしまった。

 刑部は病のためすでに失明しており、皮膚も崩れているため、鎧も着れず、輿に乗って真っ白な死装束で参戦していた。そして、湯浅五助という有能な家来をそばに引き連れており、刑部のこの戦場での耳目となっていた。
 その五助がこの時
 「金吾殿、裏切り」
 と刑部に告げると、もともと予測していただけに
 「そうか。金吾を討ち取ってくれる」
 と静かにいい、もとより予想していただけにその言葉どおり、的確に陣形を変えて、襲いかかってきた小早川軍を瞬く間に討ち取る準備をし、事実10倍に近い小早川勢の先鋒を見事に数百メートル撃退した。
 刑部は「人面獣心の金吾の首のみ、めざせ!」と兵に叱咤激励した。
  ところが、金吾の裏切りが新たな裏切りを呼んだ。大軍が駆け下り、今でこそ刑部が圧倒しているが、多勢に無勢である。持ちこたえるのが精一杯になった。この間に家康はさらに言い含めてあった西軍の小大名の寝返りを指示。これで刑部の命運は尽きた。三方から囲まれた刑部軍はたちまち窮地におちいり、壊滅を余儀なくされた。
 ここに至って刑部は五助に言った。
 「これでいくさは終わりだ。そなたたちは落ちのびよ」
 ところが、五助をはじめ刑部の周囲の武士達は動こうとしない。
 「金吾に一太刀浴びせない限りは」と口々に言う。

 「わかった。止めはしない。ただわしは目が見えぬ。そなた達のせっかくのいくさが見えぬ。わしの前に来て名乗ってから、駆けよ」
 士卒はみな刑部の前に来て、いちいち名乗りを上げ、刑部は名を聞くたびうなずき、そして一人一人討ち死にするために駆け去っていったという。
 この刑部の統率力には戦慄を覚える。この時代、負け戦と決まったら、あるじすら見捨てて戦線離脱するのが、当時の普通の武士のしようだった。よほど刑部は普段から士の心を得ていたのだろう。
 いよいよ、最後となった時、刑部は五助に言った。
 「わしは腹を切るが、このみにくい首を敵に渡してくれるな。」
 刑部は病で崩れた顔を家康にさらすことのみ恥じた。五助は涙をこらえて介錯した。大谷刑部、享年42歳。

 余談だが、関ヶ原の戦いで戦死または切腹した将は東西合わせて大谷刑部ただ一人である。その他の西軍の敗将はみな戦地から落ち延びていった。
 
 この五助の話には後日談がある。刑部の遺言を忠実に守ろうとした五助はあるじの首を人知れず埋葬したが、時を隔てず、そこへ郎党と共にあらわれた東軍の新手の武士が「おぬしは湯浅五助でないか」と誰何した。
 みれば五助の旧知の武士、藤堂某だった。五助は戦闘でも猛者であったが、朝からのいくさでもはや疲れきっており、また数人で囲まれては戦闘で抗すべくもない。死を覚悟して言った。
 「旧知のよしみで最後の願いがある。我が主、大谷刑部少輔は自害した。今、おぬしが見たようにここに葬った。が、その首だけはみのがしてほしい。武士の情けだ。その代わり、わしの首と引き替えにしろ」と。
 藤堂は「心得た」と言い、もはや戦おうとしない五助の首をうった。
 
 戦いが済んで藤堂は家康に「湯浅五助を討ち取った」と報告すると、家康は
 「湯浅五助といえば刑部の忠実な家人。五助が主人の死に立ち会っていないはずがない。それでは、おぬしは大谷刑部の首のありかを知っているだろう」
 と鋭い洞察力で藤堂に迫った。が、彼はすでに天下人の家康に対しても臆せずに言った。
 「知っています。が、わが手柄と代えても、いや、たとえ死んでもいえませぬ。五助と刑部殿の首だけは見逃してくれと約束しましたゆえ」
 家康はもとよりこのような話は大好きである。
 「そうであろう。それこそが、まことの武士である」
 と、破顔一笑し、それ以上刑部のことは追究せず、さらに藤堂にあつく褒美を与えたという。

 刑部は病で顔かたちは崩れていても、薫風が香り立つような人柄であったに違いない。死に際しても、家人や、そして敵方の武士にすら「武士道」を体現させてしまうような。
 司馬遼太郎氏の「関ヶ原」では大谷刑部をこう評している。

  「名将」という言葉をこの戦場の敵味方の諸将の中でもとめるとすれば、大谷吉継こそ、そうであろう。
 「関ヶ原」下巻p342新潮文庫より

 彼は平和に近づいた豊臣政権末期に登場した官僚武将ゆえ、実際に軍配を握ったのはこの戦いが最初で最後であった。にも関わらず、家康や司馬氏をも驚嘆させる戦いぶりを見せた。

 友情のみゆえに命を捨てた刑部、彼と運命を共にした三成はこの戦いのあと、もう少しだけ生き延びる。三成は戦場から離脱した後、東軍につかまり、家康によって六条河原で斬首される。三成は刑部については沈黙した。どういうことばですらも評しなかった。
 ただ、「関ヶ原での、このことは(家康が勝利したことは)筋が違う」とだけ訴え続けた。
 
 だから刑部は報われない、とは私は思わない。三成は正義は常にこちらにあり、刑部はそれを知って味方した、と本気で信じていた。三成は、そういう性格であるから、「刑部済まなかった」とは口が裂けても言えない。謝ればおのれが悪かったことになる。

 私は三成はそれでいいと思うし、刑部も三成を止められなかったのは痛恨事ではないと思っていたに相違ない、といろいろな資料を読んでそう信じている。
 
 有り余る才能を持ちながら病につぶされていく。そんなことは、今でも昔でもいくらでもあったことだ。
 乱世でなければ、そして三成の親友でなければ、おそらく400年後の私達に知られることもなく、埋もれていったと思われる大谷刑部少輔、彼は友情に殉じた最初で最後の武将だった、ということが本望だったのでは、と今はそう考えている。

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2006年1月6日金曜日「20年後」
 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます。

 今年も医療を取り巻く環境は厳しくなることと思いますが、なにとぞよろしくおねがいします。
 さて、年頭に「初夢」のような夢物語をひとつのせましょう。ショート・ショートみたいですがオリジナルです。
 
 男は病んでいた。
 どこがおかしいか彼ははっきりとはわからなかったが、これが病だということは知っていた。どうも仕事を辞めてから体の調子が悪い。
 男は自宅のマシンの前に座る。マシンといってもアクリル板のようなパネルが机に載っているだけ。これが「マシン」だ。座ると同時には音もなく画面を映し出す。人工音声とは思えない若い女性ののびやかな声で「ご本人様を確認しました。アクセスを開始します。」と平面スピーカーから響いた。
 
 マイクロカメラが埋め込まれているそのプラズマアクリル板は座った者の眼の虹彩模様を認識する。当然、登録以外の受信データでは起動しない。マシンにはボードもマウスもないが、今のどうしようもないこの状態を訴えたかった。
 男は「具合が悪い。」とつぶやく。画面の女性はほほえんで「かしこまりました」とお辞儀をする。画面の美女はAI(人工頭脳)を搭載したCG女性といわれないとわからないほど精巧にできている。
 最初にこのサービスと契約したとき数個の単語を登録するだけで声紋を記憶し、また今回の「具合が悪い」などというようなあいまいな命令でも反応が可能なコマンドのニュアンスを判断する。むろん、他の声ではアクセスできない。本人確認のセキュリティは二重三重に施されており安全だ。
 
 外世界へのあらゆる窓口がこのただの板である。もはやクリニックに受診するのもこの方法しかない時代になった。男にとって便利なのかどうかわからないが、仕方なくアクセスする。女性から画面が切り替わり「医療受診サービス」とディスプレイにでる。男は「志木南口クリニック」とつぶやく。
 
 志木南口クリニックは今日も混雑しているようだ。
 「受診受付後、診察まで25分かかります。受付をなさいますか?」
 男はため息をついた。しかたないな・・・しかしやむを得まい。「ああ、たのむ」画面が瞬時に切り替わった。
 「受付を終了しました。受診までの時間をどのようにお使いになりますか?」
 屈託のない人工声音だが嫌みはなく男は気になることはない。
 「休む」
 その一言でアクリルディスプレイはワイドな画面になり男の好きな宇宙の風景を映し出した。星間飛行中をモチーフにしたスクリーンセイバーのようだ。同時にクラシック音楽が耳障りでないほどの音量でサラウンドで響き渡る。男が座っていた椅子は低反発の素材で出来ており、また男の体重と体格にあわせて自動的に形をかえ、座り心地はこの上ない。そして、音楽にそってゆっくりとリクライニングの体勢をとる。男は画面をしばらく眺めていたが眼を閉じて、眠ることにした。
 
 やがて、シートが少しあがり、マシンのスピーカーの横の吹き出し口からスペアミントのような淡い香りがした。これは一流のアロマセラピストが男の性格を分析してリフレッシュするときや起きるときなど好ましい状態になるようにプログラムされている。また、飽きることのないように、ランダムに変更されるので男は大変気に入っていた。曲調がやや変化し男が好んで聞いていたアップテンポのロックに変わった。男は半覚醒の状態になる。最近はロックもあまり聴く気分にない。男は顔をゆがめた。
 「御気分はいかがですか?受診5分前です。シートを元に戻します。左手をスキャナの上に置いてください」
 休んでいた20分などあっという間だ。男は体を休めても具合が悪いことに変わりはなく、いよいよ医師の診察が必要なことを知り憂鬱な気分になった。
 
 机の左前にあるバーコード読み取り機のような四角い透明板の部分が「スキャナ」だ。男はいわれたままに左手をそっとスキャナの上に置く。画面が続けた。
 「問診を開始します。」男は女性の声にいちいち応える。「だいぶ前からだが・・・体がだるい・・・咳などない・・・」スキャナは男の手のひらを同時に分析して体の状態を把握し続けている。
 体温、脈拍、血圧は当然として、わずかににじみ出てくる汗を解析して、血液検査と同等かそれ以上のデータを得てクリニックに送られる。
 スキャナは特殊な超音波および赤外線を使い、皮下の毛細血管を流れる血液の流れを調べる。内科の病気以外ではうつ病なども血液の中のセロトニンや神経伝達ホルモンの活性を調べることでほぼ診断がつく世の中になった。
 「ありがとうございました。それでは受診です。」女性が深くお辞儀をしてディスプレイが変化する。
 
 女性が姿を消すと医師の顔が3Dで映し出される、というより机の上に浮かび上がる。このスクリーンは男の顔の眼の幅、視力などにあわせて映像を二重にずらして発光している。そのため、偏光グラスなどをかけなくても男にとってはそこに実物がいるとしか思えないほどの迫力を持って医師が存在するのだ。そして、しゃべり出す。むろん合成グラフィックに合成音声だ。女性患者などはオプションを払って好みで特別なイケメン医師を注文しているようだが、男にとっては既製品CGで十分であった。「それでは診察しましょう。」
 
 自宅で居ながらにして受診できる。当初は受け入れがたかったこのシステムだが、ここ数年普及し今や患者が診療所におもむくということはない。ケガや外傷などはマンションの中にある無人ロボット治療センターまで行き、そこでこのシステムを踏んで治療台に横たわると、医師の指示を受けたロボットアームが遠隔操作で治療してくれる。内科などは自宅がすでに診療所となって久しい。メインコンピュータには地域の流行の病気やありとあらゆるノウハウが詰め込まれており、どこでも均一で高い医療が受けられるのだ。
 
 3DCGの医師にあれこれ言われるが男は自分の思う医療とのギャップにますますめまいを感じた。CG医師は最後に言った。
 「データや問診からは内科的疾患は否定的ですね。脳内ホルモン量の乱れが見られますから、昔でいうところのうつ状態でしょう。心配はありません。薬でよくなります」
 自分はうつなのか?男は含み笑いを浮かべて言った。
 「ああ、そうか。わかったよ」画面が切り替わり女性CGになった。「クレジットの請求書は後ほど送られます。受診ありがとうございました。」

 「これは医療なのか?」
 男はたまらず叫んだ。画面の女性はほほえんだままで答えた。
 「御質問の意味がわかりません。ご質問をもう一度ゆっくりとお願いします。」男は自分の愚かさを呪った。機械に・・・人間の心を持たないものに文句を言ってもしかたないのだ・・・人類はいつからこのような誤った道を歩んできたのか。
 「いや、いい。すまなかった」
 「集配センターにアクセスして食事メニューの変更をプログラムします。それではお大事に」
 昔ながらの薬などはない。すべての人が食事は集配センターから配給になっている。日本では人口が減少しているが、途上国を中心に世界的な人口爆発で食糧難となっており、現在は食料は政府指導で決して余ることのないように厳重にプログラム管理されている。薬も途上国に行き渡らないので、飲み忘れ飲み残しがないように考慮されている。処方されると食事メニューの変更と薬効成分を混入するのだ。患者たちは日々変わらず生活をすることができる。が、男はすべてのことがらに絶望を感じていた。仕事を辞めてから、いや仕事についていけなくなってからずっと体が重い。これがうつの症状なのだな・・・改めて力無く自笑した。

 「さあ、今日も終わったな。」
 医師は診療センターの操作室で背伸びをしてつぶやいた。診療はいまやモニタを眺めるだけとプログラムの微調整が主であった。いくつもの画面を見ながら、コンピュータの下した診断を訂正することはほとんどない。ただ、クレームに答えたり、診療を開始しても患者がコマンドを入れない場合だったり、確かにマニュアル通りにないことを補助する管理者の仕事であった。
 
 「先生、うつ病のこの人、クレーマーリストに載ってます。」
 診療記録のログをモニタに映し出しながら若いサブドクターが医師に呼びかけた。
 「うん?ああ、これは問題ないだろう・・・医療とは、か・・・またずいぶん原始的なクレームだな。・・・お?なんだ、こりゃ。前の志木南口院長じゃないか、このご老人」
 現院長の医師は口を曲げて言った。
 「ははぁ、だいぶいっちゃってるな・・・裏アクセスでご老人の望むマンツーマンの医療にしてあげてもいいんだが、こういう頭の固い老人の"うつ"はなぁ、・・・治らんよ。」
 「ほんと、そうですよね」「だいたい、前院長は最後までクリニック形式でやるんだって言ってたのを、俺がなだめてすかしてこのシステムに変えたんだ。それでもああだこうだいうのでお引き取りいただいた。あんな化石みたいな医療はもうはやらないんだな。」
 サブドクターも薄笑いを浮かべて言った。
 「この先生、まさか『手術もワシがする』って言ってたんでしょうね」
 「まあ、ここにまともに受診するとは驚いたな。化石からの進歩だよ。大切な患者様だからあまりいじめるなよ」 二人は大笑いしてすぐに次のクレームに取りかかった。   完
 
 宇宙とロック好きの老人、タイトルの20年後で正体がばれましたね(笑)それでは。

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2006年7月24日月曜日「進化の果てに」
 今年はビートルズの日本公演からちょうど40年目のことらしい。40年とはちょっと半端だが、それなら強引だがビートルズの話をしなくてはならない。(今回はレトロ趣味で古い言い回しがたくさん出てくるので悪しからず)
 
 私が中学生のある日、家で一人留守番している時、ふとステレオ(死語ですが・・・)に曲をかけようとしてアルバムフォルダをのぞいていたら、「世界の名曲」というシリーズもののLP(!)ボックスがあった。いまもありがちな毎月一枚もので、ちまちま集めていくとりっぱなストリングスのBGM集になるというものだったと思う。
 
 そのアルバムは映画音楽が多かったが、ある一枚に「ビートルズの名曲」というものがあった。最初は、はぁ、かの有名なビートルズかぁ、ふーん、と思っただけだった。それまで私はビートルズなるものを知らなかった。10曲ぐらい入っていたかどうか、どんなメロディなんだろう?と思い、ほんの気まぐれに針を落としてみた。これが私の人生のターニングポイントの一つだったかもしれない(大げさな!)
 
 どこかで聴いたことある、それでいて妙に新鮮だった。曲は知っていてもビートルズとは知らなかったものも多かった。ああ、この曲が「イエスタディ」「ミッシェル」だったのか、「オ・ブラ・ディ・オ・ブラ・ダ」に至ってはどっかの民謡でスタンダードナンバーじゃないの、とまで思っていたが、ビートルズの作だと初めて知った。
 驚きだった。すごいメロディメーカーじゃないか!私が聴いたこのアルバムはストリングスで徹底的にデコレートされた砂糖菓子みたいなものだったが、ビートルズメロディに初めて触れた私は本物を聴いてみたいと強烈に思った。

 早速、「FMファン」(今は売っているのでしょうか?)でビートルズ特集を捜した。片っ端からエアチェック(今のダウンロードみたいなもんです。違うか)し、そればかり聴きまくった。凝り性というかしつこい性格というか、それからというもの朝から晩までビートルズばかり聴いていた。あまり聴かなくなった今でも多分イントロを聴いただけでビートルズ公式録音曲はすべてわかると思う。中二から中三にかけては当時リアルタイムで活躍していた解散後ビートルズソロも合わせてチェックしていた。私の中学生時代はほとんどビートルズ一色だった。

 ビートルズは足かけたった7年で世界を駆け抜けていった。逆にそれだけしか存在していなかったことが驚きである。また、音楽的にも技術的にもその7年の変貌は奇跡的である。ビートルズを年代順に通して聴いていくと、改めてそのすごみを実感できる。初期の頃と解散間近のビートルズはもはや同じバンドではなかった。ビートルズは自分たちが築いたスタイルとサウンドを常に新しく打ち破ることで進化していった。
 あまりにも早い進歩にメンバー同士が疲労し、摩擦が生じ、核となるジョン・レノンとポール・マッカートニーが不和になると、この空前絶後のバンドはあっというまに分解してその生を終えた。
 超新星の爆発にも似た解散だったが、その後ビートルズエッセンスは全世界に振りまかれて、ロックの世界は分化して発展していった。個性あるビッグバンドが次々に登場し、ミュージックシーンが極彩色に彩られるのもむしろビートルズが消滅してからではなかっただろうか。

 どんなものでも、あまりに早い進化は自らを滅ぼす。
 これはなにもビートルズに限ったことではない。ガン細胞の分裂のスピードは速ければ速いほど悪性度が高い。目に留まるくらいの大きさのガンをしばらくしてもう一度検査した場合、悪性度の高いガンは驚異的なスピードで増大している。
 レントゲン上、倍の大きさに育つ時間をダブリングタイム(Doubling time)と呼んで短いほど悪性であるということになる。ダブリングタイムが数十年のガンもあれば数ヶ月という超悪性のものもある。外科医が敗北を感じる時はこの成長を目の当たりにした時だろう。

 大腸ガンはよく肝臓に転移する。私らが医師になり立ての頃はこのような遠隔の臓器に転移したものは末期ガンということで手をつけなかった。
 が、大腸ガンが大きくなって腸をふさいでしまうと腸閉塞となって患者さんは大変苦しむ。そこで、「姑息的手術」と呼ばれる腸が詰まったところだけ切除してつなぎ直して閉塞を解除する最小限の手術をしたものだ。この際、肝臓の転移巣には手を着けず、手術時間も短いので体のダメージを少なくなる。患者さんは一時的に回復するはずだが、すぐに愕然となる。残した転移巣の腫瘍が術後にみるみる増大するのだ。あれよあれよというまに患者さんは衰弱して、せっかく食べられるようにと手術をしてもいくばくもなく亡くなられるケースが多い。
 
 この現象は「手術をすることによって、免疫能が落ちて、残ったガンが大きくなるんだ」と解釈されて私達もそう教わってきた。が、最近はそういうことではなく、原発巣(もとのガン=ここでは大腸ガン)は転移巣に対して「成長抑制因子」という物質を出してコントロールしているのではないかとされている。
 つまり、メインの腫瘍の親会社は自分たちが安穏に生きるために、子会社が必要以上に大きくならないように制御しているのだ。手術をされて親会社の抑制がとれた子会社は暴走を始めるということになる。この因子(エンドスタチン・アンジオスタチンと命名された)を利用して「ガン冬眠療法=ガンを大きくさせない」がさかんに研究されている。
 余談だが現在では大腸癌の単発の転移性肝臓癌は同時に切除して、その予後を向上させている。
 
 進化(成長)が速いとわが身を滅ぼす、とガン細胞ですら知っているのだ。
 
 ある著明な天文学者へのインタビュー(カール・セーガンかホーキングかちょっと失念したが)で
 「地球外知的生命の存在する確率は?」と問いに
 「限りなく高いでしょう」と答え、
 「それでは、UFOは存在するのでしょうか?」とさらに聞くと「いや、それはないでしょうね。」「なぜ?」学者はさびしく笑いながらこう答えた。
 「星間旅行ができるくらい科学が発達する生命種は急速に滅んでいくのです。だから、知的生命体同士がコンタクトをとる確率は限りなくゼロに近いのです。」
 宇宙のあちこちで知性のある生命体は誕生するが、ガン細胞と同じく急激に増大して滅んでいく、ということに相違ない。
 私達はゴキブリが2億年もの間、同じ姿であることを知っている。だから彼らは滅びないのだ。

 地球カレンダーというものがある。45億年の地球の時間を1年に縮めたものだ。それによると、恐竜の全盛時代は12/25頃で、火を使うホモサピエンスが誕生するのは12/31午後11半過ぎである。キリストの誕生は大晦日11時59分45秒である。我々の有史はたった15秒間にすぎない。人類の進化のスピードはもはや止めようがない。どこかで立ち止まることは必要ではないか。
 
 ビートルズのライバルとされていたローリングストーンズも私はよく聴く。彼らはビートルズと違ってストレートなロックを変わらずに40年間続けている。
 彼らと言えども一時期ビートルズにかぶれて道を踏み外しそうになったが(笑)ビートルズがなくなると憑き物が落ちたようにパワフルなロックに戻ってきた。
 むしろビートルズがいなくなって彼らの視界が大きくひらけた。奇しくもビートルズ解散直後からの数年本来のストーンズに戻り、立て続けにリリースした「Let It Bleed」「Sticy Fingers」「Exile on Main Street」の3枚はロック史上残る名盤であろう(かなり片寄った意見ですが・・・)彼らはビートルズの進化の幻影を捨ててから、いや捨てたためにロックシーンに変わらず君臨している。
 
 芸術は進化しないものであるが、し続けることを義務づけられる医療はどこかでクラッシュしないものか・・・と杞憂にすぎないことをとうとうと考えてしまう。

 ビートルズが残した不滅のアルバム、最後のダイアモンドの輝きにもにた「アビー・ロード」を聴きながら記した。


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2006年10月30日月曜日「パスティーシュ〜2006年のインフルエンザ」
今日のコラムは私のインチキ小説です。
 
 もしかしたら、これはパクリか?それともハルキをバカにしているのか?とお怒りになる方もあるかもしれません。最初にお詫びしておきますが、オリジナルです。
 
 そして、お読みになられる方の最適な条件は
 
 1)我が国ノーベル文学賞候補筆頭・M上ハルキ氏*の作品(特に初期の作品)をお読みになっており、
 2)それが「ノルウェーの森」をのぞきある程度お好きで、かつ
 3)シャレがおわかりになり、ハルキ氏を多少茶化したところで笑って許せる寛容な方、となります。
 
 ですから、そうでない方は「これはなんなんだ?」てなことになりますので悪しからず。
 
 かっこよく言えばM上ハルキ氏のパスティーシュ、有り体に言えば「贋作」ってやつですね。でも、この作中で使われるインフルエンザのウンチクは本当のことなので、そのことについてはほんの少しだけ、読む価値はあるかもしれません。

 「2006年のインフルエンザ」

 北欧神話で有名な雷神トールがもつミョルニルは、なんでも打ち砕くことができる斧の形をした武器だ。伝説のトールハンマー。唐突だが、インフルエンザにかかるとこのミョルニルに膝を砕かれたように、体中電撃が走り、足腰が立たなくなる。僕はかつて何度もこのトールハンマーで倒されては、後悔を繰り返した。
 健康に気を使うのは社会人としての義務だと信じていた。咳をみんなの前でするようなことは、白昼、下着姿でラッシュ時の駅前に飛び出すより恥ずかしい。僕は秋風が吹く頃になるとフリッパーに勢いよくはじかれるピンボールの銀玉のように落ち着かなくなる。インフルエンザにかかるってことも、伝染するってことも、等しく全く許せない。感染者だけが弱るのならまだしも、グラウンドゼロのように自分だけぽっかり廃墟になり、そうしてそばのみんなを弱らせていく、そんなアトミックボムのような病気を僕は決して許してはおけないたちのようだ。
 
 「だってさ」いつもは誰彼となく肩を叩いてはいいわけをする。が、この時は真剣に彼女に向かって切り出した。
 「インフルエンザはこわくないかい」
 「そりゃあ、いやよ」彼女はくるくる目を動かして、目の前のモカ・フラペチーノをちょっぴり飲む。
 その仕草が可愛らしくそして僕はうなずく。
 「そうだろう。だから僕は街路樹の葉が落ちてきて、一度でも肩にかかったら、今年こそは予防注射を打ちにいくのさ」
 「痛くないの」
 「そりゃあ、痛いだろうね。でもね」僕はスタバではカフェラテのトールしか飲まない。もちろんトールハンマーとは関係がない。
 そして豆乳、ってことも、忘れない。さっきも店の女の子にソイラテと言う前に、「いつもの豆乳ですよね」とほほえまれた。なじみと思われるのは気分的には悪くない。それになによりもここには煙草の匂いがない。
 「インフルエンザにかかった時のことを想像してごらん」
 「わたしは・・・できないな。」
 「なぜ」
 彼女は小さく笑った。
 「だって、インフルエンザになったことないもの。思いもつかないわ。」
 「だとすると、君は楽しみも苦しみも半分ずつしか経験してないね」
 「そんな大げさなこと?」彼女の髪が揺れる。
 「マッチ箱くらいかな」僕はラテを飲みほした。「せいぜい軽く扱うには危険だし、重大に扱うには大げさだ」
彼女はまた目をくるくるさせた。
 「大げさよね」
 「うん、まあね。大げさだ。トールハンマーって知ってるかい」
 「知らないわ」知らなくても彼女は決してつまらなそうな顔をしない。喜んでいるようにも見える。
 「そいつは知らない方がよかった。今晩は僕がパスタをつくってあげる。ワインを飲めない分、多めにね」
 「あら、どうして」
 「君はこれも知らないと思うけど」
 僕はからになったラテと彼女のフラペチーノのカップを両手に持って立ち上がる。
 彼女のカップには、まだたっぷりフラペチーノが半分残っている。彼女はいつも半分ほどしか飲まない。最初からハーフで注文したら、といつかいったことがある。それならそれで、やっぱりその半分しか飲まないわ、といわれたことをまた思い出した。
 「予防接種を受けると、その日は、いつもみたいに、ワインを一本あけるってわけにはいかないんだ」
 彼女はべつだん笑わなかった。何か考える風で、ふーん、そういうもんなんだ、といって、じゃあ、ともいわず、それで別れた。

 志木駅の南口はロータリーがある。高いビルはなく、そこだけ空が切り取られているから、駅の階段をおりると晴れていさえすれば、それだけでやけにまぶしい。秋の日差しは夏のそれと違って僕を突き通す力はない。けれど、昼まで寝過ごして、よろよろと立ち上がり、リビングのブラインドをいきなり開けたときのように、弱いながらもロータリーの午後の太陽はくらくらするめまいさえ起こさせる。
 南口クリニックはすぐに見つかった。予防接種を、僕の左腕にうとう、と決めてから、さっきからU2の「ヨシュア・トゥリー」をエンドレスにかけっぱなしで聞いていた。理由なんか見つからない。なにしろはじめてワクチンを打つってことだし、休みの午後はジェイズ・バーでビールを飲んでいる時分のはずが、今日だけはなにをおいても注射しなくてはならない気持ちになっていた。そのすてきな思いつきはU2を聞くこともその一部だ。そう、どうあっても。
 おかげで、小走りにクリニックの階段をかけ上がりながら、ずっと「ワン・トゥリー・ヒル」が頭をかけめぐっていた。なんだか楽しくなって思わずひとりごとがでる。
 
 「インフルエンザになったことがないって」

 くくっと、のどがなった。わけがわからずおかしかった。クリニックの窓口で
 「問診票を記入してください」って若い事務員がボードを差し出しても、僕はチェシャキャットのような不思議な笑いをかみころしていたのだろう。こういうクリニックは困った患者をあしらう教育はきっと受けているはずだ。なぜ僕がそれに気づいたかというと、そういう時にいつも声をかけられていたから。
 いつだって彼女たちは魅力的な笑顔で「どうかされましたか」と僕にきく。たいてい、かわいい子が僕にほほえむことになっている。
「いいえ、どういたしまして、大丈夫です」僕はいつものように答えた。
「そうですか。すぐに呼ばれますよ」
「ありがとう」
 
 クリニックの冷たい雰囲気がやわらかな肌ざわりにかわっていき、水彩画ではよくみたり、ファイリングケースでよく使ったりするタイプの薄いきらきらしたスカイブルーに着色されるのがわかる。僕は昔からそんな空気が見える。みんなは少しも信用しないけど本当に色が見える。もし、空気の色をあてるコンテストがあったら、僕は間違いなく入賞できるだろう。ひょっとしたら、ぶっちぎりで優勝するかもしれない。
 そして、誰だって、大丈夫、と宣言する人と話すことはうれしいし、僕だってバーでへりくつをこねくり回すヘミングウエイの小説に出てくるような人とは話したくない。だから、それらもこの場所が深い井戸の中の心地よい場所に思える理由だった。さらにうれしいことに、ここにも煙草のにおいがまったくない。
 
 クリニックの待合室に色がついたまま、僕はしばらく待っていた。やがて、スピーカーからドクターの僕の名前を呼ぶ野太い声が聞こえてきた。
「呼ばれましたよ」若い事務員がさらに追い打ちをかける。僕はその子と握手をしたくなった、が、やめた。今は注射に専念しなくては、と思ったからだ。

 そのドクターはあっという間に僕の左腕に注射してしまった。官僚的というわけではないけど、僕にとってはあまりにもあっけなかった。彼女には「痛いよ」って宣言していただけに、ばつが悪かった。トールハンマーの恐怖がなくなって、U2の曲はすでにもう頭に残っていなかった。僕は思わず注射された腕を右の手で無意識にさぐろうとした。それほどあっけなかった。
 「ああ、もんだらだめですよ」
 今打ったばかりなのに、せっかちなのか、すでに次の作業をしている。忙しく書類になにやら書き込んでいたドクターがやおら振り返って僕にいった。確かに僕はもんでしまおうとした。
 「もむと、あとで腫れたり、あざになったり、するだけです。アレルギー反応も起こしやすくなりますしね、それでいて効果はかわらないから」
 僕は仰天した。
 「そうなんですか。僕は」
 本当にしらなかった。
 「ずっともんできましたけど」
 「そうですね。予防注射をそう思っている人は多いですよ。ほら」ドクターはさっきの僕と同じようにくくっ、と笑った。
 「蚊に刺されて腫れたところを爪で十字つける人いるでしょ。あれ割と気持ちいいよね。でも、なんの医学的根拠はありません。それと同じですよ」
  
 どこが同じなのか、僕にはわからなかったけど、ドクターのいう、同じですよ、が「民間伝承はあてにならない」ことを意味していると気づいたので、そういうものかと納得しようとした。ドクターは気をよくしたのかさらに続けた。
 「お風呂も入れますよ」
 これには別に驚かなかった。僕はどんな日でもシャワーをかかしたことがない。犬のように働いても、泥のように酔っぱらっても。
 今まで注射をした日でも、おそるおそるシャワーに注射の部位をぬらしてみたが、何事かが起こったためしがなかった。そのうち大胆にも湯舟にもつけてみた。3日くらいびくびくしてワインを飲まなかったりして観察したが何も起こらなかった。だから、僕は知っていた。風呂に入ってもかまわないこと。でもそれは血管注射だったか、予防注射だったかは覚えていない。ましてや初めてうったインフルエンザワクチンのことではありえない。
 でも、今は驚かなくてはいけないような気がした。ナースが「注射を打った後の注意書き」のリーフレットを僕に手渡そうと、今や遅しと構えているのをみてしまったからだ。
 「そうなんですか」
 「そうです。あなたのようなお若い人は、みんな知っているものですがね」
 今さら知っていたとは言えない。ここら辺がこのクリニックからの引き上げ時なのだろう。
 
 回りをざっとみると診察室の空気はクリムゾンレッドの色だ。僕が今までこの色に近いものをみたのは、高校時代につき合っていた彼女が外国に留学したときに見送ったあと、帰りの電車の中で唐突に見えた色に似ている。もちろんその後、その彼女とは一度も会っていない。そんなわけで、僕にとってこの部屋は刺激が強すぎるカラーのようだ。だけど、ちょっぴりドクターともう少しだけ話してみようと思った。
 
 「あの、注射してもインフルエンザにかかる人はいますよね」
 「その通りです。インフルエンザ予防接種は万能ではありません。」
 ドクターはすっかり上機嫌のようだ。ナースは、というと、たまったカルテを気にしている。むだばなししないでどんどん患者をさばけ、というテレパシーが僕にも伝わる。まるでイルカを目線とエサで自在に操る海浜公園の調教師のようだ。それで僕もなんだかうれしくなった。
 
 「毎年、打たなくてはいけないのは、インフルエンザが流行ごとに形を少しずつ変えていくからです。ワクチンは流行を予想して3つくらいのウイルスから作ったものを混ぜて打つのですよ。」
 「ははあ、ブレンドですね」
 「そうそう。たとえ流行の形からはずれてもウイルスのもとの大まかな形は似ているから、それらがすでに用意されていると、体の中でウイルスを倒す抗体を作りやすいし、タイムラグも短いのです。あなたも車運転しますか?」
 「ええ」
 「ちょっとぶつけた時と、大破しちゃったとき、修理してすぐに元通りになるのはどっちだかわかりますよね。部品がディーラーにあれば、さらに早くなおるでしょ」
 たとえ話がすこぶるわかりにくいが、このドクターは悪い人でないらしいことは僕にもわかる。
 「ええ、もちろん」
 「そういうわけですよ。」
 「お酒は飲んでもいいですか?」
 「たしなむくらい、少しばかりならね。ワイン一本空けるってのはまずいですね」
 僕の言った通りだった。
 「最後に教えてもらいたいんですけど」調教師ナースの安堵が僕に伝わる。
 
 「インフルエンザにかかったことがない人っているんですか?」
 
 ドクターはペンをくるっと回した。右手ではじいてプロペラのように回す仕草だ。
 「ない、かどうかはわかりませんが、・・・そういう発言をする人の解釈としていくとおりかの可能性があります。」僕はそのペンをじっと見ていた。
 
 「インフルエンザを熱の高いカゼと思いこんで、病院にもこない人は、そんな時、インフルエンザにかかったという自覚がないですね。薬を飲まなくても、通常の大人なら4〜5日で治ってしまいます。が、感染力が強いので、かかっているとき知らずに出歩かれると迷惑です。今は、すぐにインフルエンザかどうかを調べる検査があるから、病院で診断を受けるべきですね。」
 至極もっともだ。インフルエンザで出歩くなんて、社会人として最低のふるまいだ。僕は大きく肯いた。
 「また、予防にはビタミンCを多量に摂取だの、紅茶でうがいする、乳糖製品をよくとるとかかりにくいなど民間ではいろいろささやかれていますが、ワクチン接種より根拠のあるものはありません。十分な休養・睡眠、手洗いは予防に効果があるとはっきりしています。でも、絶対にかからない、ということはありえませんね。」
 
 大学の講義が始まりそうな勢いだったので、僕は椅子を少しひいて両手を天井に上げた。ワクチンを刺されたときはあまり痛くなかったが、今頃になってじんわり薬液が腕の中で騒いでいる。
 潮時だ。でも、ドクターは話の落としどころをもう一つ用意していた。
 
 「もう一つの可能性はね」またドクターはくくっと笑った。
 
 「その人が大嘘つき、の場合ですね」
 
 なるほど。
 今日パスタを食べながら、その話を彼女にしてみよう。(完)


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2006年12月04日月曜日「しゃぼん玉と情操教育」
しゃぼん玉とんだ/屋根までとんだ/屋根までとんで/こわれて消えた・・・

・・・童謡「しゃぼん玉」である。歌も歌詞も有名だが、この続きをご存じだろうか。短い唄なので全詞を紹介すると以下はこう続く。
 
 しゃぼん玉消えた/とばずに消えた/生まれてすぐに/こわれて消えた/か〜ぜ、かぜ、吹くな/しゃぼん玉、とばそ 
 「野口雨情・詞/中山晋平・曲」
 
 実はこの「しゃぼん玉」が書かれたのは、作詞者野口雨情の長女がわずか生後7日で死去した直後のこととのこと。子供のたわいもない遊びの風景を歌ったのに、どこかさびしげな曲調なのはそのわけなのだろう。なにより、二番目の歌詞こそはこの早世した長女を想って書かれたことに間違いない。
 はかない命を散らした長女を「しゃぼん玉」、病魔を「かぜ」にたとえて、死に対する嘆きをこれだけ短い詞に凝縮したのはさすがである。曲もさることながら、長い年月歌い継がれているわけは、こうした魂のこもった歌詞があったからこそだともいえる。
 
 私は長い間この「しゃぼん玉」のいわれを知らなかった。もちろん歌詞は最後まで知ってはいたが、背景に「生まれてすぐに、こわれて消えた」命があったことは知るよしもなかった。いつだったか、最近童謡を学校で教えない、という記事をどこかで読んで、その際、消えた学校唱歌の中にいくつか私が子供の頃よく耳にした歌も混ざっていた。その時にこの「しゃぼん玉」のエピソードを知った。現代ではそれら消えた唄に代わって採用されたのは、ビートルズや流行歌、サザンやユーミンなども歌われているらしい。
 
 時代にそぐわない、といったことで学校では歌わなくなったものの中に「汽車」「むらの鍛冶や」「せいくらべ」などがあり、歌詞の表現に問題のあるとされた「(唄を忘れた)カナリア」「赤とんぼ」がある。カナリアはともかく赤とんぼを歌わないというのは問題ではないか?と思ったら、なんと「ねえやは15で嫁に行き」というくだりが、民法で16歳以下は結婚できないからダメだそうだ。なんじゃそりゃ。

 歌詞がむずかしい、ということで切られた「われはうみのこ」・・・そんな理由でとは絶句である。むずかしきゃ、教えればいいだろう。そもそも学校はそういうところではないのか?

 そりゃ私の好きなビートルズを教科書で取り上げてくださるのは結構なことだが、そっちは英語じゃねぇか。それに、ひねくれ者の私はきっと学校で習ったら好きにならなかったろう。
 学校では童謡や唱歌をみっちり歌いこむ方がいいとさえ思える。どうせ家に帰りゃ、TVやネットで自分の好きな歌をガンガン聴けるのだから。
 童謡や古くさい曲は生徒の興味が薄いって?真剣に学ばないって?あほか、子供にこびてどうする。教育なんてもともと子供にとっては苦痛を伴うものなのだ。生徒がきらいだからって算数教えないのか?
 
 時代にそぐわない、という理由なら、唄の作られたその頃の背景を教えればいい。鍛治の仕事とはこうこうだった、汽車はこういう発明から生み出された電車の先祖だと。歌いながら教えれば、きっと古き良き日本の情景が浮かんでくるはずだ。
 
 低学年なら、しゃぼん玉作らせながら、なんどもそれを歌わせる、屋根まで飛ばす(長持ちさせる)には、風向き、大きさ、溶液の濃度が関係することを知るだろう。高学年になったら歌詞の背景を教え、そこから生命を慈しみ大切にする心を育てる。なによりも唄にこめた雨情の悲しみを知って欲しい。
 「しゃぼん玉」一つで音楽と理科と道徳の授業ができ、こういうことこそ情操教育というのではないか?第一「しゃぼん玉」の曲を知らないと、そんなエピソードを聞いてもぴんと来ないだろう。
 
 先祖や祖父母からの連綿としたつながりを断ち割りながら、教えていくという現代の学校教育はいかがなものか?古くさいからという理由で切り捨てていく、その態度には私には納得がいかない。流行歌だっていいものはあるし、人々の記憶に長く残る曲はもちろんある。だが、学校で教える曲はその時代を代表して、何かを伝えなくてはならない。
 ただ朗報に教育基本法だかの改正をうけてかどうかわからないが、来年の小学校の教科書にはかなりの数の唱歌が復活するらしいという記事を読んだ。日本の歌が教室で歌われるというのは私にとってはうれしい報道だ。

 唐突だがさいたまスーパーアリーナでのU2ライブに行ってきた。
 私のような年寄りはいるのかと思っていたが、隣の席は私より10くらい若く見えるが「会社帰りに駆けつけました」というスーツ姿のビジネスマンといった出で立ちの方だったので安堵した。さすがに最近は立ちっぱなしのコンサートは疲れる(笑)みんなが座って見れば私もよく見えるのだが、U2登場と同時にほぼ全員がスタンディングで自動的に立ち席になってしまった。
 おかげで足が痛いわい。それと年寄りには音量がでかすぎ!だし、コンサート終わるの遅すぎ!できれば昼間やってくんないかな。え?文句言うなら家でおとなしくDVDでも見てろって?すみません。
 
 私と同じように年老いてきたボーカルのボノ(なんと私とタメ年です)は往年の声は出ないようだが、それらをのぞけばやはり世界最高のロックバンドだけにステージは盛り上がった。
 余談だがつい最近、米国のタイム誌でこの50年間の歴代ベスト・アルバム100というのを発表しており(←興味のある方はどうぞhttp://www.time.com/time/2006/100albums/index.html)U2はそのなかでU2は2枚選ばれていた。ビートルズは5作品とロック・アーチストの中ではダントツでそれは納得できる選考だ。
 だが、ピンクフロイド、キング・クリムゾン、イエス、ELP、ジェネシスが1枚も選ばれておらずプログレ・ロックをこけにしておるのか、と憤慨した。私的には大変不満である。私が選ぶのであれば・・・いやまたの機会にしましょう。 
閑話休題。
 
 ロック・ミュージシャンはおしなべてなんらかのメッセージをその歌詞に託すようになることが多い。U2も同じく曲にこめるメッセージ性が高く、音楽活動以外でも人種差別や宗教対立、アフリカの貧困問題などに積極的に取り組んでおり、去年「良心の大使」に就任するに至り、受賞こそは逃したがノーベル平和賞候補にもなった。彼らは命は地球より重いなどとは決して歌わない。命はこんなにも軽く扱われている、だからみんな行動を起こしてくれ、と切にうったえる。中学時代にジョン・レノンの「イマジン」「ハッピー・クリスマス」を聞いたとき、世界平和を願うそのメッセージに感動した覚えがある。
 
 だからといって、学校でU2やジョンレノンの曲を聴け、とはいわない。ロックを生理的に受けつけられない人もいるだろう。ただ、自分が小学校の時に回りにあった曲を思い起こすと、アニメの主題歌と学校唱歌だけだったような気がする。現代は乳幼児の時代から、ありとあらゆる音楽の洪水の中に身を浸しているといっても過言ではない。お世辞にも流行歌(今はJPOPか)の歌詞は何度聴いても上すべりしていて、サビ以外そらで覚えられるようなものは少ないように思える。(尾崎豊の歌詞にはいいものもあるが)

 つまらなくて生徒に不評であろうが、学校でだけは幾層にもエピソードとメッセージ性のある先ほどの「しゃぼん玉」だとか、古来から歌い継がれている曲をくり返し教え込んで欲しいと思っている。なに押しつけだって言われても、かまやしない。ほっといたって好きな音楽は自分で見つけるだろうし、私のようになんだってオタクのように聴き込み、とことん調べるようになる。そんなことより低学年でやる英語教育の方がよっぽどの押しつけだと思いますよ。

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2007年01月12日金曜日「20年後プラス1」
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます。

 今年はどんな年になるのでしょうか。年末年始にあちこちで「バラバラ殺人」が発覚して、あまり明るくない新年になってしまいましたね。終わりよければすべてよし、と考えてのこり11ヶ月、上昇気運で明るい年になっていくことを祈ります。

 さて、恒例の「初夢」物語20年後シリーズです。06年の続編ですが、一応、個々独立したお話になっております。未読の方はセットで読まれるとさらにお楽しみになれるかと存じます。(→まず06年「20年後」を先に読む)
・・・・・
 
 「ええか、やんまやから、りっちゃんにはむりや。そこにいいや」
 やっくんは横にいるりっちゃんにささやきました。りっちゃんは小さくうなずくとやっくんの後ろにかくれました。麦わら帽子をかぶったりっちゃんはやっくんの後ろでぴたっと動きません。やっくんに叱られると思ったのか息もこらえているようです。
 
 夏休みの昼すぎ、いつもの野原でなかよしのやっくんとりっちゃんは二人で虫取りに来ていました。すると、やっくんの頭の上をついーっときらきらひかりながら飛んでいく大きなとんぼがいたのです。そしてそれは野原の中央で羽ばたきながらふわふわととどまりました。

 「ぎんやんまや!」やっくんは小さく叫びました。りっちゃんはびっくりしてかけよってきます。
 「ほんま?」やっくんはそんなりっちゃんにこわい顔をします。
 「あかんて!そんなほたえたら(うるさくする)やんま、もう来ーせんで」やっくんは最初自分が大きな声を出したことをわすれてりっちゃんに言っていたのです。
「こらえてや(許して)」りっちゃんはしょんぼりして小さい声であやまります。りっちゃんはいつもやっくんに怒られたら、かなしそうにちっちゃくなります。それでもいつもくっついては一緒に遊んでいました。

 この夏休み、とのさまばったや、しおからとんぼ、せみなんかはいっぱいとりましたし、でもそれらはみんなに見せても、たいして自慢できません。ぎんやんまはやっくんにとって大物です。
やっくんは網をにぎりなおしました。

 ぎんやんまは自分のとおるみちすじを決めています。その時、途中ヘリコプターのように空中でとどまることがあるのです。やっくんの手の届くところに浮かんでいたらしめたものです。やっくんは虫取り網をかまえて、ゆっくりとやんまに近づきました。りっちゃんはやっくんの後ろからそろそろついていたのですが、あんまりへっぴり腰だったので、モグラの穴だったのでしょうか、へこみに足元を取られて転んでしまいました。
「あ!」
するとぎんやんまはひかる羽をひるがえして一直線にかなたへ飛んでいってしまいました。

 「なしてこけるんや!」
 やっくんがあんまり怒るんでりっちゃんは泣き出してしまいました。ぎんやんまは一度逃げると当分同じ道を飛びません。こんなチャンスはそうそう来ないのです。
「もう、りっちゃんとは遊ばん」
 雑草に足を取られたりっちゃんは、ころんだままひざをかかえて泣いていました。
 ぎんやんまつかまえたら、みんなに自慢できるんに、やっくんはくやしいやらで、りっちゃんの様子がおかしいことに気がつきませんでした。
 りっちゃんは泣きじゃくりながら、ようやく立ち上がり、目を両手でおおいながら、おうちの方へ歩いていきます。びっこを引いて歩く後ろ姿を見てはじめてやっくんはりっちゃんがひざをケガした事を知りました。
「あ・・・」気づいたけれど、ものすごくおこった手前やっくんは急にやさしくなれません。「ケガしとるやないか」との言葉をのみこんでしまいました。
 そうです。いつもなら体の大きいやっくんはりっちゃんにとても親切で、遊びつかれて歩けなくなったりっちゃんをおぶって家まで送っていくこともありました。
 「歩けるんやから・・・だいじょうぶや・・・でも痛そうやな」ひょこひょこ遠ざかるりっちゃんを見ても、やっくんは決心がつきません。
 「ええわ、ほかの、やんま、つかまえたるわ」やっくんはくるっとふり返り、反対方向の林に向かって走り出しました。でも、やっくんはその日やんまを見ることはありませんでしたし、そして、りっちゃんはその日から外に出られなくなりました。

 「かんにんね。りつ子、ひざケガして、うんじゃったみたい。すごい高い熱でとるんよ。」
 りっちゃんのお母さんが言いました。やんまに逃げられた3日後やっくんはりっちゃんを遊びにさそいに家に行きました。やっくんはあの時「遊ばん」とは言ったけれど、二人は大の仲良しでしたから。
 「そうなん」
 「あがってく?りつ子よろこぶわ」
 「ええです」
 やっくんは自分がケガさせたわけではなかったのですが、熱でうなってるりっちゃんに会うのはなんだか恥ずかしかったのです。それに「遊ばん」て言ってしまった手前もありました。
 「また、来ますけ」やっくんはりっちゃんのお家の玄関からばっと飛び出していきました。

 りっちゃんはその夜、急に具合が悪くなって救急車で何キロも離れた市立病院に行ってしまいました。やっくんがそれを知ったのは一週間くらいたった夏休みの終わる日でした。ずっと調子が悪かったりっちゃんは、学校が始まる日の明け方、血が止まらなくなる病気でこの世を去ってしまったのです。
 
 その日、やっくんはりっちゃんと遊んでいた原っぱに立っていました。夏の終わりなのでもう、ぎんやんまの姿は見られないでしょう。少しだけ涼しくなった夕暮れの風の中、あきあかねがふわふわと飛んでいます。
 昨日がりっちゃんのお葬式でした。りっちゃんがもうどこにもいないなんてやっくんは信じられません。
 りっちゃんを病気にしたんはわいじゃ・・・わいじゃけ・・・やっくんはすごくくやしかったのです。
 
 どうしてあの時やさしくしてあげれなかったのでしょう。おぶって家まで連れてってあげればよかった。お見舞いに行けばよかった。わいじゃ・・・わいがいけんかったんじゃ。

 「謝りたいかね」
 後ろから大人の声がしました。びっくりしてやっくんはふり返りました。そこには黒い服を着た大きな男の人が立っていました。
 「りっちゃんに謝りたいんだろう?」
 「うん、そうじゃ」やっくんは思わずうなずきました。知らない人と話してはいけないとお母さんに言われていたのですが、なぜだかわからないけど自分の心の中がわかるこの男の人となら話してもよい気がしました。
 「君には難しい話だろうが、よく聞きなさい。私は君をりっちゃんに会わせる事はできる。けれど、りっちゃんを生き返らせる事はできない。」
 「なしてだ?」
 「死ぬ決まりになっているものを生かすわけにはいかないんだ。これを運命というんだけど、わかるかな?」
 「わかる」本当は男の人が何を言っているのか半分もわからなかったやっくんですが、りっちゃんに会えるらしい、ということはわかったし、少し薄気味悪かったけど正直、強がっていました。
 「運命は変える事はできない。だが、君がりっちゃんに会うことで君自身も救われるんだ」
 男の人は手をやっくんの頭にそっとおきました。やっくんは急に気が遠くなり、次にふと気づくとそこはりっちゃんの部屋でした。

 「あ、やっくん。来てくれたん」りっちゃんは頭に氷のうをのせてふとんに寝ていました。
 「足もいたいんよ・・・でも大丈夫や・・・やっくん」
 「ん?」やっくんはりっちゃんを見つめ返しました。
 信じられません。きのうは本当にりっちゃんのお葬式だったのでしょうか。でも、やっくんの目の前でこうして横になっているのはまぎれもなくりっちゃんでした。りっちゃんの顔は熱で赤くなっていました。かなりつらそうに見えました。
 「やんま、逃がしてごめんな」やっくんは何を話していいかわかりません。答えられずに黙って固まってしまいました。
 「・・・そやね。こらえらへんよね。やんまやもん・・・」やっくんがまだ怒っていると勘違いしたりっちゃんは悲しそうに目をふせました。

 「ちがうわぁ・・・ちがうんじゃ」
 やっくんはたまらずに思わず大きな声を思わず出してしまいました。りっちゃんはぎょっとしてびくっと体をふるわせます。
 「おらぁこそ、おらこそ・・・かんにんや、こらえてや、・・・りっちゃんが元気になってくれんと・・やんまなんかいらへん・・・もいっぺん、あそぼや、元気になってや」
 「ほんま?」りっちゃんはぱっと顔を明るくして天井に目を向けました。
 「よか。やっくんと仲直りできて・・・、うち、・・・ほっとしたら、えらなった(疲れた)・・・ちいと寝るね」ふっと息をつくと目を閉じました。
 「りっちゃん」
 「なん?」
 「おら、おっきくなったら、・・・大きくなったらお医者にならぁ、そんでりっちゃんのきずも、病気もなおしたる」
 りっちゃんはもう一度目をぱっちり開けてほほえみました。その笑顔を見たやっくんはとても悲しくなってしまいました。
「うれしかよ・・でもやっくん、なして」りっちゃんは首をかしげてききました。「泣くん?」
 やっくんの両目からみるみる涙があふれてしまい、ぼたぼたとすわっている足の上に落ちていきました。

 やっくんが覚えているのはそこまででした。気がつくともとの夕暮れの野原にあおむけにたおれていました。男の人の姿もありません。
 その時、ひかる羽をもつ大きなぎんやんまがやっくんの上をゆっくり飛んでいきました。日の光を受けてオレンジ色に輝く羽をみてやっくんは「りっちゃんが飛んでいく」と思いました。りっちゃんとこの不思議なできごとは一生忘れないことでしょう・・・・・・・・・・


・・・・

 「・・・患者は元医師で2年前に志木南口クリニック退職、その後重症うつ病を発症、治療されるも次第に感情喪失、特殊型ロックド・イン症候群となり、喜怒哀楽すべての感情表現不能となる、か・・・これはやっかいだな。が、反応は悪くない。このモニタの神経伝達物質数値を見ればこの治療が奏効していることがわかる」
 
 医師はモニタを患者のプロファイルから治療シーンに切り替え、もう一度その効果を確認した。患者の脳より発する電気信号が部屋いっぱいの液晶モニタに流れていく。同時に解析された血液データも数え切れない数字と記号の羅列が目にもとまらぬスピードでスクロールしている。

 「精神神経医療研究所」の取材に来た女性ジャーナリストはその画面の迫力と見事さに圧倒されながら思った。人間の精神を具現化すると極彩色のオーロラのようになると。今まで科学専門にいろいろ取材を重ねてきたが、その専門性とうらはらに女性は時々情緒的な気分になることに気づいた。
 ここには今はやりの医療ロボットなどはなく、マルチモニタのすみにうつっている患者は昔ながらの点滴を施され重要な治療中なので麻酔状態かもしれない。一昔前にいたとされる「寝たきり患者」といった風にも見える。
 
 治療に使用したというやっくんの視点から見たプログラムの映像を見終わった女性はほっと息をはいた。
 
 医師は振り返ったが、にこりともせず言った。
 「どうです?すごいものでしょう。今までの医学ではこのような精神が崩壊した患者を治すすべがなかった。崩壊の原因には深層心理、もっとも奥深いところに原因があるのです。それを『イド』と言ってもかまいません。それなのに変調を来してきた近々の症状にあわせて薬を処方したって、土台の腐っている建築物の屋根を治して『なぜよくならないんだ』と言っているようなものだと思いませんか?」
 「すると、精神を病む原因は幼少時からすでにあると」
 「そうです。正確には幼少時からの記憶を操作して一から建て直す、といった方がいいでしょう。大脳記憶を増幅改変するプログラムがありますので、患者の症状とプロフィールから演算し、望ましい記憶に改変するレシピは700万通りのストーリーくらいになりますが、このマシンはわずか3分ほどで彼にベストマッチする治療『記憶』を決定します。」
 
 女性は背筋が少し寒くなった。
 「記憶を変えてしまう。それは人格を変えてしまう事にならないのですか?」
 
 「何がいけないのですか」その医師はあきれたように答えた。「それこそ『治療』と呼ばれるもので、非難されるいわれはないでしょう。今の彼の人格を変えなくてはこの状態は治らないのですよ」
 「いえ。そういうことではなく、危険ではないでしょうか。宗教的な洗脳も可能になるじゃないですか」

 「あなたたちジャーナリストは医療者を信用しない。これだからいやになる。いいですか。はるか昔、麻薬や覚醒剤で信者を洗脳した殺人カルト教団がありましたね。その結果、その薬を医療に使うのを禁止されましたか?そんなことはなかったでしょう。使う者の心の持ちようで、こういったものは毒にも薬にもなるのです。今度のシステムだって医療者以外の使用は厳しく禁じられています。それに改変する『治療』記憶は国際基準でログやプログラムをオンライン統制下で厳しく管理されています。医療以外悪用される余地はありません。」
 
 医師は気分を害したようで一気にまくし立てた。女性はそれでも釈然としなかった。
 
 「嘘の記憶を植え込まれることは、たとえ治療と言えども人間として容認しがたい行為と思えますが」
 
 「彼の記憶を変えるのではないのです。彼が幼少時山陰方面の小都市にいた事、りっちゃんという幼なじみがいた事、これはすべて事実です。その後、関東に来て、医学部を目指し、東北の小都市の医大に入る。友人関係やそれらを改変する事はできません。今回の治療では医師を志した彼のきっかけの記憶をマシンが新たに作り出しただけです。この記憶を軸に中学高校時代へ新たな人格を備えた彼の記憶を改変していくことをマシンが決定したのです。うまくいかなければ、植え付けた記憶をすべてデリートし、また『ぎんやんまとりっちゃん』から戻って違うエピソードを作ることになるでしょうね。それは患者の感情反応をマシンが察知し瞬時にして判断します。」
 
 医師は演算指示用アイマスクをはずして言った。
 「あなたは今の彼を見ても、それでもこの治療に反対しますか?」女性は目を液晶画面に転じた。

 病んだ男の閉じられた両眼が大写しになった。今まではぴくりともしなかったが、まぶたが小刻みに震えはじめ、やがて目尻から一筋の涙が伝って落ちた。
 「何の感情を示す事のなかった彼の大脳が精神的に再構築されて、『悲しみ』と『決意』を新たに手に入れなおしたのです。治療はこれからが佳境です。私は忙しいのです。取材はもういいでしょう?」
 
 「もう一つ教えてください」
 女性はボイスレコーダー付き電子手帳をバックにしまい立ち上がって、言った。
 「りつ子さんはどうなったのですか?」
 「それを記事にするのですか?」「いえ、プライバシーは厳守します」
 医師ははじめて笑みを浮かべた。
 「本当のりつ子さんは『あの夏休み』に家族で外国へ転勤になりました。現在はお孫さんに囲まれて日本のある都市で幸せに暮らしているそうです」
 
 「そうですか」
 女性はもう一度モニタの病んだ男を見た。この治療は効果的で、彼は確かに人間に戻りつつあるようだ。彼の見たぎんやんまは本物のことだったろう。美しい夕日もとんぼが飛び惑う原っぱも。
 しかし、人間の心を取り戻しても彼の余生は機械が盛りつけた記憶の上によるものだと思うと、やはり女性は気分が晴れなかった。ただ、りっちゃんの魂に模した夕日に飛ぶぎんやんまの美しさは真実であってほしいと願った。
 
 そして「ぎんやんまが世界から絶滅した」という記事をつい昨日書いたばかりの科学ジャーナリストの女性にとってはつらい偶然だった。(完)

 元院長、一体どうなっていくのでしょう(笑)それでは。また。

 ・・・りっちゃんは実在しません。野郎とばっかりつるんでいました。

   
 =注=
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2007年09月12日水曜日「ウォーキング・ディスク朝用」

 その後減量はどうなっているのかと言えば、ここ最近は芳しくない。と言って、リバウンドに悩んでいるわけでなく、思うように体重が減らなくなった。
 
 それは人間だからスランプだってたまにある。(イチローだって5打席ノーヒットのこともあるし・・・っておこがましいか)
 最初の3〜4ヶ月は面白いように減少していったがここ1〜2ヶ月はある一定のラインでの攻防が続いている。体重がその辺を行ったり来たりを繰り返しているのだ。
 ここらが限界なのか?とも思うが、まあ、元気に歩けて、ひもじくも感じず、酒もうまい・・・となれば限界と言うよりベスト・ウエイトと評価すべきだろか。これ以上減らしたいのなら、もっと食べるのを制限するか、後はいよいよ筋肉強化月間に移行しなくてはならない、と思うと、ナマケモノなのでいささか暗くなってしまう。それで体をいじめ抜いて負荷をかけるのは先延ばしにしたい。
 
 さて、ウォーキングの強力なグッズと以前述べたように、私にはこのデジタルオーディオプレーヤーがないと歩くことができない。だいたい60分強に曲をセレクトし、プレイリスト機能を使って、いくつかウォーク用の勝手なオムニバスを作っては組み替えたり、を楽しんでいる。70〜80年代の古い洋楽を中心に作ったものだが、近頃は「これは歩くのになかなかスグレモノではないだろうか?結構選曲も万人受けするのでは?」と自画自賛している。(というより我田引水、牽強付会か?)
 そこで、いろいろ曲を組み替えて作った中で60分コースのベストアルバム1が今一番のお気に入りなので、それを紹介することにしてみた。これは「朝ウォーク・バージョン」でもっともポピュラー度の高い曲をそろえている。自信を持ってオススメできるものだ。後は昼バージョン、深夜バージョンなどいろいろあるが、だんだんオタク度が増していくので、やはりこれかな?

「ウォーキング・ディスクselect1・朝バージョン」

1.「炎のランナー:ヴァンゲリス」
 
 とっかかりはどの曲か、と悩むことしばしでしたが、まさにウォーキングを始めるのにふさわしい曲がありました。やはりこれしかないでしょう。驚いたことにもう25年前の曲なんですね。しかし、荘厳な感じは古びていません。掛け値なしの名曲です。
 まだ眠気の残る体にイントロのファンファーレを隅々まで響かせながら靴紐を結んでください。ここではゆっくりと朝の霊的な風の粒子を体にまとうだけで十分です。深呼吸をして、さあ、外にでましょう。ヴァンゲリスのピアノが走るのをうながしてもまだまだスピードを上げてはダメですよ。
 
 82年、ビルボード誌最高位1位、年間チャート21位
 (どれだけヒットしたかの目安です。ビルボード誌は日本で言えばオリコンチャートみたいな総合売り上げランキングです。)

2.「見つめていたい:ポリス」
 
 ウォームアップがすんだ体に次のステップとしては緩やかにテンポを上げてゆくのがよいでしょう。
そこで、83年記録的に世界的大ヒットしたこのEvery Breath You Takeを選択しました。
 跳ね上げるようなベース音と鼓動音のようなドラムが印象的な曲で、この美しいメロディラインと枯れたボーカルの感じはポリスのスティングならではです。
 サビの部分のSince you've been gone, I've lost〜と歌い上げるスティングに感動して、歩くテンションは上がっていくことうけあいです。

 83年、1位、年間1位

 3.「デイドリーム・ビリーバー:モンキーズ」
 
 さあ、歩き始めて5分以上経過しましたね。ようやく体も起き出して、周りの景色も見られる余裕が出てきましたでしょう。道ばたの花が咲いているのに気づきますか?まだ息は上がっていませんね。
 ここはかなり古い曲ですが、(40年前!)永遠のポップスナンバーで行きましょう。このメロディを知らない人はいないと思います。何度もTV-CMで使われてきたし、明るい曲なので、なによりもウキウキしますね。サビの部分はぜひ一緒に口ずさんでください。ここで息が切れてはいけません。
 
 67年、1位、年間6位

 4.「ドント・ルック・バック:ボストン」
 
  ウォームアップがすんだ体にいよいよアレグロの速さで行きましょう。
 Bostonと言えば、デビュー曲の「More Than A Feeling(宇宙の彼方へ)」が有名ですが、ウォーキングにはこちらを採用しました。
 この伸びのあるギターサウンドはボストンの真骨頂です。イントロがかかった瞬間バンド名がわかるという演奏に特徴のあるグループはそうはいません。
 この曲は単純なベース音が響きますが、アップしてきた体に、ベストマッチして歩くスピードが上がるのがわかります。
 さあ、ドント・ルック・バック(振り返るな)で歩きましょう!この曲でリズムを取ると競歩みたいになっちゃいますけどね。

 78年、4位、年間72位
 
5.「アイ・オブ・ザ・タイガー:サバイバー」
 
  ボストンでハイピッチになったウォークをさらに高速で維持しましょう。
 打ち付けるようなリズムを刻むこの曲はまさにぴったりですね。「ロッキー3」のテーマに採用、メガヒットになったのでご存じの方も多いと思います。
 スリリングなイントロから切れのいいメロディラインは、歩くのに当てはめると上り坂でもももを上げて頑張れますね。有酸素運動にはもってこいです。力強く風を切って歩くのが大変気持ちいい時間帯です。
 
 82年、1位、年間1位

6.「ライフ・イン・ザ・ノーザン・タウン:ドリーム・アカデミー」
  
 これは趣味で選んだ一曲、といえましょうが、案外ウォークにはよかった感じです。Dream Academyは英国のバンドで日本ではあまり有名ではありません。
 このLife In The Northern Townのみがヒットしたと言っても過言ではないでしょう。
 こういう大仰でドラマティックなメロディに非常に私は弱いのです。流れるような美しいコーラスに身をゆだねてみてください。前曲、Eye of the Tigerで走り出しそうになった体をもう一度スローテンポに戻せます。

 86年、7位、年間91位


 7.「ボーン・トゥー・ラブ・ユー:フレディ・マーキュリー」
 
 クイーンと言えば、乗れる楽曲はたくさんあります。
 中でも「輝ける七つの海」「キープ・ユアセルフ・アライブ(炎のロックンロール)」「カインド・オブ・マジック」などがリズミカルで歩くには最適です。(個人的には「レイディオ・ガ・ガ」が好きです)が、ここはドラマ「プライド」での主題歌となったこの曲で決まりです。クイーン(正確にはフレディのソロ・ナンバーですが)にしてはベタな作りですが、行進曲風の間奏が疲れ始めた体を引っ張ります。そろそろ水分補給をしてみましょう。それにしてもフレディのボーカルは冴えてますね。

 85年、不明、年間不明


8.「イエスタディズ・ヒーロー:ベイシティ・ローラーズ」
 
 これも趣味で選んだもう一つの曲です。ベイシティと言えばお約束のように「サタデイ・ナイト」ですね。実際は全米チャートを制覇したのもその曲なんですが、歩くとなるとこちらでしょう。
 でも、なにもアイドルバンドみたいだったベイシティをわざわざ選ばなくても・・・、とはいいっこなしですよ。
 時代の寵児のようにもてはやされ、ビートルズの再来と称された彼らもブームが終わった後は曲が残りませんでした。
 が、今となっては彼らそのものとも言える皮肉なタイトルとなったこの曲。実はすばらしくキャッチーな作りなんですよ。レトロなイントロ(これはしょうがない)打ち付けるようなドラムから入ります。ほら、もっと歩きたくなったでしょう。
 そしてサビの部分、なんだか懐かしい気分に浸れます。古くささは否めませんが、ラストで転調する部分、ここで思いっきり深呼吸して風を感じましょう。

76年、54位、年間-位

9.「ドント・ストップ・ビリーヴィン:ジャーニー」

 ジャーニーはウエストコースト出身ですが、サウンドに粘りけを感じるプログレッシブロックバンドです。ボストンもそうですけど、アメリカン・バンドはブリティッシュと違いどう味付けしても曲風が粘りますね。それはそれでいいんですけど。
 彼らの曲は日本では「海猿」の主題歌「オープン・アームズ」が有名ですね。このオープン・アームズ自体もう25年以上前の曲なんです!その「オープン・アームズ」が収録されているアルバムからのカッティングでスマッシュ・ヒットを記録したのがこの「ドント・ストップ・ビリーヴィン」です。ピアノからスタートして、メロディアスに徐々に盛り上げていく手法はジャーニーの得意技です。ベースサウンドが響き渡りボーカルのスティーブ・ペリーのハスキーボイスが絡まって再び力強く歩けるようになります。
 
 81年、9位、年間67位

10.「アフリカ:トト」
 
 ロック史上に残る名曲です。ロスのAORバンドTOTOの最大のヒット曲です。ウエストコーストの象徴とされるイーグルスやドゥービー・ブラザースでさえもジャーニーで感じたようなサウンドにウエットな部分を残しているんですが、このトトはどちらかというとブリティッシュに近い乾いた当たりを感じます。
 この曲はイントロのサンバっぽい入り方で、なにか起こさせるような期待感、と同時に抑制のきいた歌い出しから、一気にテンションをあげて、高らかにコーラスへと移行します。このサビの美しさはノスタルジックで秀逸です。アフリカの広大な草原が眼前に浮かぶようです。さわやかな風が吹き抜けるような旋律はウォーキングやドライブにもぴったりじゃないでしょうか。

 83年、1位、年間19位

11.「フィラデルフィア・フリーダム:エルトン・ジョン」

 エルトン・ジョンは数多くの名曲を送り出したメロディメーカーです。得意技は有名な「ユア・ソング」「キャンドル・イン・ザ・ウインド」を始めとした美しい旋律のバラードですが、アップテンポの佳曲も多いのです。75年当時はエルトン・ジョンは出す曲出す曲すべてミリオンヒットとなるまさにノリにノっていた時期です。
 歩く用の曲となると・・・迷いましたがこれが最適では?
 スリリングなイントロからストリングスを加えて一気に歌い出し、メリハリのきいたサウンドは疲れ始めた足にぴったりきます。この曲はウインブルドン3連覇を含め60年代大活躍したテニスプレーヤーだったキング夫人に捧げた曲です。彼女は「フィラデルフィア・フリーダム」というチームを率いていました。
 
 75年、1位、年間2位

 12.「トップ・オブ・ザ・ワールド:カーペンターズ」

 カーペンターズは70年代日本で特に人気がありました。しかし、80年代にはメガヒットもなくなり、さらにカレン・カーペンターの拒食症発病後の急死も手伝って活動停止、すっかりミュージックシーンから一時忘れ去られたようになりましたが、90年代後半にはいりドラマやCMなどでよく使われ、若い世代にも聞かれるようになりました。この曲は日本で火がついて、評判のよさに本国アメリカもあわててシングルにし、No1ヒットになったという逸話のある曲です。
 歩くコースに高台はありますか?この曲は本当にさわやかさの極みです。歩く曲というより、ここで一息入れましょう。さあ、高台で小休止。深呼吸とストレッチをしましょう。カレンが歌っているように「一点の雲もなく、世界の頂上から見下ろしているような」感覚になればいいですね。
 
 73年、1位、年間11位

13.「スカイ・ハイ:ジグソー」
 
 ジグソーは英国のロックバンドですが、有名な曲はこれ一曲といっても過言ではありません。この曲は70年代大活躍したプロレスのミル・マスカラスの主題歌となったので、大ヒットしました。(今は巨人の二岡選手のタイトルらしいですね)。
 印象的なイントロから浮揚感に満ちあふれた歌い出し、キャッチーなメロディのサビはもうハミングと言うより、一緒に歌っちゃいましょう。

 75年、3位、24位

 14.「ゴー・ウエスト:ペット・ショップ・ボーイズ」

 ビレッジ・ピープルというディスコ・グループが初出のこの曲です。サッカーの応援歌としても有名ですね。ビレッジ・ピープルは有名な曲をいくつも持っています。
 日本では「Y・M・C・A」をカバーした西条秀樹の大ヒットソング「ヤング・マン」、またピンクレディーがカバーした「イン・ザ・ネイビー」が知られています。
 このゴー・ウエストに関しては原曲よりもカバーして大ヒットさせたペットショップボーイズのヴァージョンをおすすめします。こちらの方が洗練されていて、ウォーキングには適しているようです。思わず、合いの手の「together!」とかけ声をあげてしまいますね。(ルー大柴か!)

  93年、-、-

15.「ファイナル・カウント・ダウン:ヨーロッパ」

 ここらでご自宅は近づいていますか?あと10分ほどでフィナーレですよ。
 ヨーロッパはスウェーデンのメタルロックバンドです。この曲はポピュラーに仕立て上げ、覚えやすい旋律とクラシカルなサウンドで大ヒットしました。が、この後、音楽性に行き詰まり、グループとしても尻すぼみとなっていきます。大ヒットをとばすとそれにとらわれてしまい、残念ですがよくある話ですね。
 でも、この曲は本当に力強いパンチの効いた曲で、ウォークの終盤を飾るにはもってこいです。ファンファーレのイントロを聞くとぞくぞくします。さあ、長く続いたウォークもいよいよ「ファイナル・カウント・ダウン」です。
 
 86年、8位、-

16.「リターン・トゥー・イノセンス:エニグマ」
 
 いよいよクールダウンの曲です。エニグマはルーマニア出身のドイツミュージシャンで「ヒーリング」ソングの代表です。
 歩き疲れた足をゆっくりとほぐしてください。ご自宅の前で整理体操するもよし、ストレッチするもよし、その時このエニグマのサウンドに体をゆだねて見ましょう。96年のアトランタオリンピックのテーマ曲にもなっているので、とても有名な曲です。台湾先住民アミ族の唄をサンプリングしているそうで、何となく「舟唄」を連想してしまうのは私だけでしょうか。この曲は壮大な作りで大地や空や風や光などすべてを内包しているような満ち足りた気分でウォーキングを終えられましょう。

 94年、4位、33位

 いかがですか?まあ、差し替えるとすれば趣味で選んでしまった6、8あたりか。
 よくもまあ、古くさい曲ばかり選んだものだ。そして、カレン・カーペンター、フレディ・マーキュリー、ボストンのボーカル、ブラッド・デルプらはすでに他界しているし、ジャーニーのスティーブ・ペリーも引退して二度と歌うことはなさそうだ。
 だが、いいわけをするわけではないが、現在ヒットしているという、ラップ系やダンス系の曲が年月が経って残るかというと私はそう思わない。時代を越えて聴き継がれる曲というのは、やはり20〜30年経って見ないとわからないが、我が国のポップスも同じと思う。どんなに大ヒットしても、忘れ去られる曲、その逆にそこそこしか売れなかったが、記憶に残る曲。そういった曲を選んだつもりだ。
 
 また、好きなビートルズ、イエス、カンサス、U2の曲などは意図的にはずした。このバンドたちはそれだけで、私はずっと歩けてしまうので一曲ずつを選ぶとすると大変だ。
 また、夜バージョンの選曲はというと、かなりマニアックで(いわゆるプログレッシブのジャンル)万人にお勧めできるシロモノではないので恥ずかしいから内緒にしたい。
 飽きが来れば(今のところゴキゲンだが)ぱぱっと差し替えができるので、非常に重宝している。いずれは季節ごと、月ごとに組んでみようと思うのだが、「歩く曲はこんなのがいいよ」というものがあればぜひ教えていただきたい。

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2007年10月12日金曜日「ドクター・ロバート」
 何度もビートルズの話で恐縮だが、アルバム「リボルバー」の中に医師を礼賛した風のジョン・レノンの曲がある。
 「ドクター・ロバート」がそれである。
 ジョンは「僕の友達のドクター・ロバートに電話しろよ/昼夜いつでも診察してもらえる/彼が問題を解決してくれるだろう/親身になって治療してくれるよ」
 と歌っている。おやおやこれは結構な・・・英国版「赤ひげ」だろうか。
 さすがに私は夜が弱い体になってしまったので、彼のように「昼夜いつでも」なんていったら体力的に即アウトである・・・
 
 額面通りドクター万歳!の曲かと喜べればよいが、斜に構えたジョン・レノンのことだし、またそれを評するさらにひねくれたビートルズウオッチャーたちから、それに続く歌詞の
 「落ちこんでてもたちまち元気が出るぞ/ドクター・ロバートの特効薬を飲んでごらん/ほら、よくなったろう/生まれかわったみたいに気分がスッキリ」
 をみて、これは医師のことを歌ったのではなく、「ヤクの売人」のことを治療者にたとえているのだ、と穿ちすぎた(?)説がまかり通っていた。なるほど、そういう目で見ると確かに最初に「診てもらえよ」でなく「電話しろよ」というのが怪しいな。
 
 実際この時期、ビートルズのメンバーは音楽・美術アーティストに蔓延していたLSDを使用しサイケデリック・サウンドによる曲を作り始めていた。次作の「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」は自他共に認めるLSD影響下の作品だったし、このアルバム「リボルバー」はその萌芽が見られる曲が散見されるのでなおさら疑わしい(この曲自体はストレートなロックだが)。しかし、ジョン自身が故人なのでもはや真相は知るよしもないが。

 さて、我が国で医師がこのロバート氏のような処方をすることが最近問題になったのをご存じであろうか?
 
 「リタリン」という重症うつ病に使う薬がある。本来は昼間に突然意識を失うごとき脱力して眠りこけてしまうナルコレプシーという原因不明の病気に特効的に効く薬であった。また小児のADHD(注意欠陥多動障害いわゆる多動児)にもよく効く薬として承認されているが、現代病のひとつとして認知されてきたうつ病に処方されるようになって怪しくなってきた。
 
 というは、このリタリンは強烈な依存を引き起こす。覚醒剤類似作用を持つことから、薬を飲んでなにがしかの軽快感を覚えたら、切れてくると薬を求めて、医療機関をさまよい始める。早い話が「覚醒剤」だということ。
 え!そんな薬を出せるの?と疑われる向きもあるだろうが、ナルコレプシーやADHDの場合は量を決めて症状を抑える程度にしか処方しない。
 だが、「うつ」に出せるとなると、効くまで(うつを改善する=元気が出るまで)処方を増やしてしまうことになる。

 当クリニックにもリタリンを処方してくれ、という患者がごくたまに来る。ここは年中無休なので連休の始めなどにあらわれて「主治医から薬をもらっているのだが、なくなってしまった。この薬がないと調子が悪くて起きあがれなくなるくらいだ。連休になって困っている」と言うケースだ。
 最初は「この薬は最小限しか出せません。休み明けに必ず主治医にかかるよう」とそのDrの診療日までの錠数しか出さなかったのだが、その後も同じ患者が休みになると同じような口上で来院し、処方を請うので、「この薬をそんな杜撰な管理をしている主治医はいないはずだから、多く飲んでいるのではないか?」と聞くと「足りなくなったら近所の医者へ行ってもらっていいと主治医から言われている」との返答。
 
 そんな薬ではないんだがな、とありえないその話にいぶかしく思って、その旨を話し丁重にお断りして当クリニックではこの薬の処方を2年ほど前からやめている。
 「リタリンは初診では処方せず、ナルコレプシーやADHDの場合、かかりつけ主治医の紹介状がないと処方しない」というルールを作った。

 それからも、初診でリタリンを処方してくれという方がちらほら(特に休日をねらって)やってくるが、当然ルールに該当しないためすべてお断りしていた。
 
 この間、大々的に「リタリンを患者の希望するだけ処方する医師逮捕」という報道があったのをごらんになった方も多いだろう。
 薬を処方する権限は医師にあり、ある病気に対して薬をどのように使うかは最終的には医師に委ねられる。たとえリタリンだろうが医師は必要だと思えば、いくらでも処方してもよいのだ。もちろん未診察処方は許されない。
 これを裁量権というが、最近は私なんぞから見てもこのような処方をするずぼらな医師がいることらしいので、医療に対する風当たりが強くなってきたのだろうか。「ついに司法が医師をコントロールする時代が来たのか」と思い暗くなったが、よく新聞を読むとこの医師はなんと患者に対する「暴行」で逮捕されたとのこと、そして調べが進む内に日常の処方内容が尋常ではないのでは?ということが明るみに出た。つまり医師裁量権に踏み込んだのではなく、あくまでも関係のない暴力事件での立件だった。

 これをきっかけにリタリンを未診療同然に患者の言いなりに処方するクリニックが次々に報道され、やり玉にあがったのだ。クリニックのずさんさをなじる声のなか、一方リタリンをどうしても手に入れたい患者側の暴走ぶりも報道された。
 
 曰く「ナルコレプシーを偽ってリタリンを処方をさせた」なんてのはかわいい方で(だまされる医師側もよくない)「勝手に処方箋を書き換えて錠数を多くした」「紹介状をパソコンで捏造した」「処方箋をカラーコピーして何枚も増やし、何度も薬局で処方した」という立派な犯罪もあったそうだ。
 私はびっくりして、犯罪行為に荷担する気は毛頭ないので、紹介状があっても処方するのもやめようと方針を切り替えた。医師が見ても見抜けないほど巧妙なものもあるらしい。
 あくどいことを考えればきりがない。暴力団が悪徳医師を雇って、リタリンの処方箋をどんどん書かせて、売り払えば莫大な利益が得られる。なにしろこの薬は覚醒剤と違ってえらく安いのだ(1錠10円くらい)
 
 それほどのことをしても飲みたい薬・・・こんなものが野放し状態であったこと自体危険きわまりないが、上手に使えば先の病気に対しては強力な武器となっていた。
 これからはおいそれとリタリンを処方できなくなることは必至だ。
 メンタル科のDrは医師の掲示板などで「少数のバカ医者のためにまた有用な薬を失った」「ADHDの子供たちはこの薬で大変コントロールできていたのだが・・・」と嘆いている。確かに一番被害を被ったのはこの疾患で良好な状態を保っている患者たちだろう。
 
 猛毒も麻薬も量を加減して使うとある疾患には特効薬になる。
 たとえばボツリヌス菌が作る毒素は1gで1000万人死亡させる自然界最強の猛毒だが、ごく微量を目尻に注射すると小じわがとれる。これが美容形成で人気のボトックス注射だ。
 麻薬も的確な量で癌の耐え難い痛みを除去できるので、ホスピスにとってなくてはならない絶対必要な薬である。
 すべての薬は毒である、という名言があるがまさしくその通り、その量と加減で薬にもなり毒にもなるのだ。
 この微妙なさじ加減こそ医療の醍醐味であることに間違いなく、何を思ったのか知らないが、患者のいいなりに薬をほいほい出してしまう医師がいるということは、医療の信用を失墜させ、やがては裁量権を制限されるきっかけを与えるだろう。全く嘆かわしいことだ。

 いろいろ調べたら「ドクター・ロバート」は実在したそうだ。「あるアメリカの伝記:エディ・セグウィック」という本に出てくるニューヨークの医師チャールズ・ロバーツがそれだ。
 彼はなんでもかんでも覚醒剤注射で病気を治す、というとんでもない医師で、著者はそこで彼に注射をしてもらいこう記している。
 「世界一すばらしい注射だった。これだなっていう感じだった。すごい快感なんだ。」と絶賛している。
 ジョン・レノンはこれを読んで曲を書いたことは間違いない。著者はこの背徳のドクター・ロバーツのために急速にジャンキーになっていく。淡々とした記述だが覚醒剤が泥沼であることを示している。

 「最初は一本打ってもらっただけだった。一週間後にもう一回打った。それから週に二回になったかな。最後には毎日行くようになって、それから日に二三べんいくようになり、しまいには自分で打つようになったんだ」
 
 ジョン・レノンは40年も経って日本に大量のドクターロバートが発生したのを天国から見てきっと笑っていることだろう。

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2008年01月12日土曜日「20年後〜ファイナル(上)」
あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。
  
  実は12月に入ると、お約束のつまらないシリーズものを上梓しなくてはならない、と強迫観念に至り、元気をなくしていました。

  20年経たなくても十分主人公になれるくらい「うつ」っております。(笑)
  
  そこで、06,07と続いたお正月読み物を今年でファイナルにすることにしました。

  今回の話はさすがに作者の力量不足でいきなりこの回のみ読んでもわけがわからないと思います。そこで、読まれてない方はお手数ですが、06年「20年後」、07年「20年後プラス1」からお読みいただけたら幸いです。

  →第1話「20年後」を読んでみる。
  
  →第2話「20年後プラス1」を読んでみる。

  
  本編、「20年後〜ファイナル(上)」

・・・・・・・・・・・・・・・
  He's a real nowhere man                 あいつはどこにも行き場のない男
  Sitting in his nowhere land                実在しない空想の国に閉じこもり
  Making all his nowhere plans for nobody        誰のためでもなく当てもない計画を立てる

     「ひとりぼっちのあいつ(Nowhere Man)」ビートルズ
・・・・・・・・・・・・・・・
 
 私は、ようやく退院することができた。
 
 ようやくと言ったものが、私にとってはずっと眠っていたようなもので別段治療に苦労したとか、つらい目にあったという風ないわゆる「闘病」の感覚がなかった。そもそも、茫洋として体のやり場がないような症状はいまでもあるが、なんの病気だったのかもよく覚えていない。主治医の話だと「重症うつ病」だったらしい。
 そう言われると、そうだろうな、とは思うが、なんだかだまされた風でもある。
 
 だから、愛想のない主治医が
 「もうかなりよくなったから、後はご自宅でもいいでしょう」
 とベッドの私に告げに来た時は、嬉しいという感情をどこか置き忘れてしまっていたのだろうに違いない。
 というのは、反応の乏しい私を怪訝そうに見て主治医はやれやれという顔をあからさまにしていたからだ。
 彼は肩すかしを食らわされたと怒っているのではないだろうが、診察を改めてするでもなく、そういう病気だったのだから、とでも思っているように、肩をそびやかして、「明日にでもお帰りになりますね」とだけ言って殺風景な部屋から出て行ってしまった。

 私は退院しても、楽しいことは何一つない。人生にひどく疲れてしまった。そう自覚しているため、むしろここで世捨て人のような生活をしている方がまだ心に負担が少ないのだ。よくなった、と言われても、当の本人があまり実感がないので、勝手に決めないで欲しいというのが本音だ。
 だが、それを抗議する気力も体力もないので、言われるまま退院の手続きをとって、数ヶ月ぶりに外気に触れることになった。

 ただ生きているだけ、ということが病院という暖かいくるみがなくなったらこれほどつらいこととは思わなかった。今までは病院で指示することに決して逆らわず、何も考えず、その日ごと生きていればそれでよかった。呼吸していると実際感じることがないように、同じくらい自然に時が過ぎることが私の生きていたあかしだった。
 それがどうだろう。私は大海にさまよい出た舵を失った小舟になってしまった。むしろそれをひっくり返してすべてを無に帰してしまえば、と考えないでもないが、もとより転覆させる気力がわき上がらない。
 
 居住区の部屋に戻ってもなにをするわけでなく、ソファーベッドに身を横たえ、何時間もずっと天井をにらんでいた。あれほど好きだった音楽を聞くのもおっくうになってしまった。
 見ようと思えば映画は天井に映し出すことができるがそれも面倒くさい。古くさい2D映画しか契約していないが私にはその方がまだいい。いまはやりの3Dシアターが苦手である。見ていると体がふわふわして吐き気さえ感じるからだ。大昔に子供の頃ディズニーワールドで「キャプテンE・O」や「ミクロ・アドベンチャー」を見たがあんな古風なアトラクションは今でもあるのだろうか?
 
 時々医療ロボットがころころ転がるようなチャイムを鳴らしながら近づいてきて、血圧だの脈拍だの記録していく。いまいましいがロボットは私を四六時中観察し記録して主治医にデータを転送するのだ。ここでも病院みたいなものだが、「仮出獄」と考えれば、保護観察はいたしかたない。

 なんでも自宅でできるようになって久しい。何も不自由がない。逆説的に不自由がないから私のような病気が増えたのではないだろうか。
 人とつきあうわずらわしさがなくなったのと引き替えに居住区から一歩も出ることのない人々が増えてしまっていた。昔も「引きこもり」とかいう流行語でビデオ・ゲームやネットなどにはまり、人とのつきあいを絶ってしまって社会問題になったこともあったらしい。
 現代はでは、そんなこと自体が当たり前になっていた。生活すべてが、人がどう思っているとか、人の立場にたって考えるとか、そのようなことに思いを巡らすことはなくなり、史上まれな超個人主義時代をむかえた。そして、世の中は急速に光を失っていったような気がする。
 
 「散歩の時間です」ロボットが告げた。

 退院しても、主治医が決めたスケジュールを守らなくてはならない。さぼりが続いてロボットに報告されてしまうと病院に強制送還となる。それも悪くない考えだが、しばらくは命令通りやってみようと思って、のろのろと体を動かし、出かける格好を整えた。「命令」されるのは実は楽だ。逆らうことのエネルギーの方がよっぽど心を消費する。

 散歩といっても、昔ながらの散策というわけではない。自然は現代にはもう残されていない。居住区から一歩出ると、移動区は(昔で言うところの往来か)強化プラスティックのチューブが張り巡らされている。その中を歩いて、ある施設に行く。それが散歩である。
 地球温暖化を克服できなかった人類は陸地をかなり失った。20年前の「京都議定書」とやらの試算と目標はなんだったのか。
 海面はみるみる上昇し、平野部の都市は水没し、人類は山沿いに逃げていった。そこも人があふれ高層居住区を建設したのだが、その建設エネルギーでさらに温暖化は進み、平均気温は真夏並になった。
 チューブから出て本物の外気に触れるなど、そんなことはもうできない。チューブは赤外線をカットできる材質なので、内部は丁度いい温度に調節されている。その維持エネルギーがさらに温暖化を進めると言っている学者もいるくらいだが私にとってはそんなことはもうどうでもいい。
 
 逃げ込む場所は過去の記憶のバーチャルリアリティだった。大昔にあったような「車椅子用の電話ボックス」くらいの小部屋が居住区の端にある。そこでスキャナに手のひらをかざし本人確認をしてヘッドギアとアイマスクのような眼鏡を装着し、リクライニングシートに身を横たえるだけだ。それが「散歩」だ。

 スポットを指定して、アバターと呼ばれる自分の分身をそこに転送する。そうすると、その電話ボックスに居ながらにして、どんなところでも行ったのと同じ感覚を得ることができる。そのスポットにプログラムされている風もにおいもすべてヘッドギアについた増幅器から現実そのものに感じるので、大昔流行ったネット上の「セカンド・ライフ」の3D版といってもいいだろう。
 居住区からここまでが自分の足を使うのだが、アバターはイメージのなかでスポットを歩き回るので、それなりに散歩感は味わえる。
 
 私は退院してから数日、「散歩」にはいつも同じスポットを選択し続けている。それはなんの変哲もない「昭和期、田舎の晩夏の夕暮れ」である。
 この風景に身を委ねると、心が安らぐと同時に切ないような思いに満たされる。私のすべての原風景がこれであるといっても過言ではない。
 とても大切なものを置いてきてしまったという錯覚なのだろうか?とんぼが飛んでいるとますます、その感が強い。このスポットは人気がないのか他のアバターにも滅多に会えないから寂しさはますますつのるのだが、私にとってはその方がかえって都合がよい。

 私は懐かしさのあふれかえる風景の中、ベンチに一人座っていた。夕焼けがこんなにきれいなのはなぜだろう。現代の太陽はぎらぎら照りつけるだけで、怒りすら覚える。ここでの太陽はいつも沈みかけているシーンだが朱色とも違う優しさを感じる赤さで私を包み込んでくれる。
 
 ふと、何かの気配を感じて振り返った。そこには5歳くらいのおかっぱ頭の少女が黙って私をじっと見つめていた。
 「どこかで会ったような・・・」と思ったが、目の大きなその女の子がにっこり微笑んだ時、電撃を受けたように体がこわばった。

 思い出した。間違いない。この子は死んだときのままの・・・

 私は声を出すことができずに見つめかえしていた。・・・りっちゃん?・・・りっちゃんなのか?
 
 「ああ、あなたはこの子が見えるのですか」
 
 私の方を見ながら、驚嘆したような声をあげたのはその女の子でなく、品のいい初老の女性だった。私が物思いにふけっている間この寂しげなスポットにエントリーしたのだろうか。幼女のそばに現れた女性に全く気がつかなかった。この場所には似つかわしくないとは思ったが、私はその女性とどこかで会ったことのある錯覚にとらわれていた。

「不思議ですね。この子は私にしか見えなかったんですよ。それもこの場所にエントリーした時だけなんです。アバターは実体化してるのですが、この子は」と、言って彼女はちょっと口ごもった。
 「・・・そうですね、まるで幽霊のようなものなんでしょうか。」
 
 私はそれは3Dビジョンのバグではないかとか、どこかのスポット映像と混線しているんではないか、とかいわゆるハードウエアの問題ではと思ってそういう風なことを、しゃべろうとしたが、なぜか違うような気がして沈黙したままだった。私の幻想が作り出したビジョンかも、とも考えたが、彼女が私がいなくてもいつも見ると言うならそれは違うのだろう。
 
 「管理システムに一度聞いたことがあるんです。アバターに見えない人が入り込むようなことがあるかと。そうしたら、そんなことはありえない、と一笑のもとに否定されました。」
 彼女はまじめそうに、物わかりの悪そうに見える私に説明してくれた。
 私の考えていることが伝わったのだろうか、いや、そのような場合まずハードウエアを疑うのは常識だろう。
 「この子は」と彼女は優しげな微笑をたたえながら幼女の前に来て向き直った。
 「呼びかけてもしゃべりもしないし、かといって逃げもしないのです。それである日、手を握ろうとして」
 と言って、彼女は幼女に手をさしのべた。
 が、彼女の手は幼女の手首と交錯して、突き抜けてしまった。
 「ご覧になれましたか?私もびっくりして、これこそはシステムエラーだと思い、今度はシステム・エンジニアに連絡して一緒にアバターでこの場所にエントリーしてもらいました。エンジニアはそんなエラーは前代未聞だ、と不服そうでしたが」
 彼女の言うとおりアバターは実体化しているので、触れると実際の感触はあるはずなのだ。
 彼女は手を戻し、今度は幼女の頭の上にのせて髪をなでる仕草をした。
 「全然、感触がないのです。やはり『幽霊』と表現していいのでしょうね。」
私はこの二人を知っている。・・・しかし、ありえない。彼女はあの夏の日の夕暮れ、死んだはずだった。過去のアバターが時を越えて出会う、ということがあるはずがない。第一、彼女が死んだ時代はこの技術はなかった。

 「同じようにエンジニアの前でこの子の頭をなでようとしたのです。でも、彼は咳払いを一つして言いました。『奥様、誠に申し上げにくいのですが、私は優秀なドクターを存じ上げています。ご紹介いたしましょうか?』と」
 彼女は手を口に当てて上品に少し笑った。・・・やはり、面影がある、間違いない。一体、どうして・・・

 「この子は私にしか見えなかったのですね。エンジニアはこれは個人情報ですから特例ですよ、と念を押してエントリー・ログを見せてくれました。私がエントリーした時間に同時に入っている子供はいないのです。もちろん他のスポットにも」

 「だから、この子は私の頭が作り出した妄想なんだろうと思われてしまいましたし、私もそれ以上騒ぎ立てることができません。ほかのスポットに入ったときは現れないのです。しばらくは薄気味悪いので、このスポットに近づかなかったのですが・・・」
 
 ・・・そう、この女の子は、やはり「りっちゃん」が死んだときの年格好に違いない。そこで時間を止めてこの場所に迷い込んできたのか?それよりも、なぜ時を隔ててここに私と同年代になった「りっちゃん」が生き返って戻ったのか・・・

 「とても古い表現ですけど『地縛霊』なのかな、って思うようにしました。それでも私はこの場所がどういう訳か好きでたまに訪れたくなるのです。それにこの子はどうも他人に思えないし、ただたたずんでいるだけで怖い対象でないし、何度か会うようになってむしろ可愛く思うようになったのです。」
 
 私はぞくりとした。あなたは過去の自分に気がついていないのか?霊、というなら、あなたこそが霊なのではないか。

 「20年後〜ファイナル(上)」完

 後半へ続く・・・・

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2008年01月16日水曜日「20年後〜ファイナル(下)」
 「20年後〜ファイナル(上)」より続き
 ・・・
 空には下半分が黄金色に輝くたなびく雲が幾層にも浮かんでおり、とても作り物とは思えない質感だった。
 夕方のそよ風も大自然の息吹のように頬にあたり心地よい。ススキはさわさわとリズミカルに歌っている。たくさんのアキアカネがふわふわと風に乗っていた。
 晩夏の夕暮れの中、淡い色のスーツを着ていたりっちゃんは日の光を浴びて美しく、神々しくさえ見えた。私はこみ上げてくる懐かしさを全身で感じとっていた。
 遠い昔、このような光景を確かに見た。しかし、その記憶は心に霞がかかったようにあわあわとしか思い出せない。

 「なぜでしょう。あなただけがこの子を見ることができるなんて、・・・そして初対面のあなたにこんなに話してしまって。私、おかしいですね。」
 りっちゃんはやっくんである私であることに気がついていないのか、初対面、と強調して話しかけていたが、彼女もうすうす、どこかで会っている人と思っているようだ。まるで幼女のようにうつむいて、はにかんでいる。
 
 ぎんやんま、だろうか、大きなとんぼが旋回しながらりっちゃんの頭の上を飛んでいった。
  
 「あなたは・・・」私は乾いた声ではじめてりっちゃんに呼びかけたが、言葉を続けることができなかった。
 
 「あ、どこかでお会いしたことがありましたでしょうか?」
 りっちゃんは急に沈黙した私をいぶかしがったのか、あわてたように言った。
 
 「私、小さいときの記憶がないんです。大病して療養所でずっと静養して、はっきりわかる思い出はその療養所生活からです。この場所は」
 と言って一度息をついだ。
 「とっても大事な所のような気がしています。この子にも会えるこのスポットは・・・」
 
 全身の血が逆流したような気がした。

 わからない。わからない。・・・私は混乱して、思わず腕についているブレスレットの「帰還」スイッチを押した。これ以上は弱り果てた私の精神が耐えられそうにない。
 瞬時に現代の「ボックス」に帰って来られた。
 
 びっしょり汗を全身にかいていた。しばらくは身動きできなかった。
 あの人と幼女はりっちゃんに間違いない。それなら、りっちゃんは生きていたのだろうか?いや、そんなことはありえない。
 ・・・私もかつてタイムスリップのような経験をして、そう確かこのような光景で葬儀後に生前のりっちゃんに会えた。黒い服の男の導きで・・・それもこれも全部まやかしだったとしたら。
 
 すると、私の記憶は・・・もしかしたら、治療で「改変」されたのか?

 ・・・そうか、そうだったんだろうな、精神の病気用にそういう非人間的で強引な治療があるとどこかで聞いたことがある。そう考えると、いままでの記憶のうさんくささはすべてつじつまが合う。幼少時代、少年時代、学生時代、そして成人してからの記憶、妙にメリハリがきいていろいろなシーンが鮮明だった。
 
 そう気がつくと、私の周りの何もかもが色あせてセピア色のモノトーン調に見えた。
 
 すべてのものが作り物か・・・バーチャルも含めて疑似物があふれかえっている現代に自分だけは、そして自分の経験だけは作られたものではないと信じてきた。が、その最後のとりでも崩れ落ちた。一番大切にしていたものを粉々に壊されたとしか表現できない。
 
 生きることに疲れ、思い出すら失い、私はあれこれ考えることを、そしてやめた・・・・。
・・・・・・・

 ・・・・「くそ!なんてことだ!」
 思考をやめた、という患者の治療計画映像を見終わった医師はディスプレイに向かって悪態をついた。
 「りっちゃん」というキラー・アイテムを投入するのはこれで10回のうち9回は「治療」を悟られた上、うつ再発のバッド・エンディングになる。
 
 殺風景な治療センター執務室の中は、テーブルとこのシミュレーターと呼ばれるマシンのみで、まるで警察の取調室に卓上PCが一つあるといった感じである。
 記憶改変をほぼ終えた患者の治療計画はこの機械で作り出す。退院後の患者の行動や心理を解析して、完全治癒へ誘導するためだ。
 しかし、この患者の『元院長』は手強かった。あと少しで「いつも再発」への道をまっしぐらである。

 主治医はテーブルの上の「coffee break」のボタンを押した。数秒で目の前にいれたてのコーヒーがテーブルの隅からせり上がって、彼の目の前に置かれた。

 患者が退院した後の治療方針はシミュレーターで推測できる。この患者は100%の確率で「散歩」の指示に従い、そこでの彼の散歩スポットは確実に「あの夏の日」を選択する。あの強烈な記憶を刻み込んだのだから、ここまでは治療側の計算通り、最新鋭の医療演算マシンも行動確率100%と算出している。
 
 しかし、誘導が順風なのはそこまでだった。スポットに行ったのちの彼の行動は「ナマケモノ」のように、なにもしない→84%、他人におびえて逃げ帰る→10%、二度と同じスポットに行かない→5%、予測不可能の行動に出る→1%と数字をたたき出した。
 
 彼はディスプレイを切り替える。・・・「何もしなかった」場合の累積再発率→78%・・・これだと、スポットで心を揺さぶる何かを起こさないと高い確率でうつに戻ると計算されているのだ。
 そこで主治医はアバターを作り出し、友人、彼のかつての患者、家族・・・いろいろ試してアバターを登場させ、仮想処理し、懐かしい気分を薬で増幅させた場合、という甘い条件で設定しても施術実験映像ではすべてうまくいかず患者は「再発」した。主治医はもう何度彼の行動を追ったことだろう。
 
 唯一の救いは彼が死んだはず、と思いこんでいるの「りっちゃん」のアバターと遭遇させた場合だ。心理的ダメージはかなり大きいし、今見たとおり施術を見破られる危険性も高い。そもそも「記憶改変」後に死者と思いこんでいるアバターを送り込むことは、マニュアルでも推奨されていない。精神の受けるダメージが一定していないため、演算変数が大きい。従って、どう転ぶかわからない、という側面は確かにある。

 が、「りっちゃん」ミッションは10回のシミュレーションのうちただ1回だけ、生きる気力を取り戻している。条件設定は同じで、なにもいじっていない。ただ「子供時代のりっちゃん」を登場させるタイミングをランダム条件にしたときのみ成功していた。主治医は喜んでもう一度微調整を施して、作ったのが今の施術だ。しかし、今度はものの見事にうっちゃりをくらわされた。

 「10%というと、少しよくなったか・・・、でもこの成功確率ではまだまだ神頼みのようなものだ」
 医師はつぶやいた。少しでも治癒率を上げようとそのほかのどんな方法も試してみた。演算マシンにもモデル治療法をピックアップさせたが、「いかなる施術後でも、この患者の最終治癒確率は7%です」とのマシンの答えだった。してみると、医師の試行錯誤の努力で3%ほど上がったことになる。

 「このマシンがないと人の治療なんてとてもできないな」
 ふと医師は思いを巡らした。治療法のレシピをトレースしてマシンに入力すると患者の行動と予後をほぼ99.99%まで正確に予測することができ、患者の反応と映像と心象風景がアウトプットされる。
 だから、施術をするまえに結果がわかることになる。芳しくない結果になる治療は捨て去ってよいし、条件をいろいろ変えて試し入力することも可能だ。このため悲劇的な結末を見ることも少なくなったが、快癒に至る道はかなり制限され、それを探し当てるのは「狭き門」である。
 
 大昔にシミュレーターがなかった時代の治療はどうだったか。
 治療が数%しか成功率がなくても、いろいろ条件を変えて試すことができないから、たとえば手術して即、死に至るケースや、抗ガン剤で衰弱死ということもあったのだろう。
 
 この患者も元外科医と聞く。「10%の成功率の手術」もきっと現役時代は若かりし頃の彼だって一度や二度手がけたに違いない。

 オレも賭けてみるか、その10%に。

 ・・・いやいや、それはいけない。すぐにその危険な誘惑を振り払った。

 彼は近代医学の信奉者であり同時に医師としてのモラルは強固に持ち合わせていた。前近代の医学だけには絶対に戻ってはいけない。10倍のベットなんて、賭博場ですら、チャレンジしないのに、そんな成功率などはそれはもはや医学と呼ぶことはできない。彼はため息を一つつくとモニターを患者の部屋に切り替えた。
 
 意識は取り戻しているが、まだ寝たきりの患者である元院長にさしたる変化はない。かつてと違い両目こそは見開かれている。その目はみじろぎもせず、光は宿っていない、そう、彼の中では時間は止まったまま。
 主治医である彼が能動的なグランドデザインでもった前向きのシナリオを書かない限り、患者はずっとしかばねのように寝ているだけである。
 
 医師は再び画面を切り替え、新しい治療用のプログラムを打ち込み始めた。どうという新しいひらめきはない、糸をほどいて条件を変えて繰り返しつむぎなおす。それが現代の医療だ。
 
 主治医はこのような生活を続けていると、時分の20年後は「患者」になるのではないか、とふと頭をよぎった。

 どことなく、似ている?・・・ある古い曲の歌詞が記憶の片隅で飛び交った。あれは大昔のビートルズだったか?
 患者もプロフィールを見ると大変好きだったようだな。ビートルズが。今は再び悪化したのであまり耳元で鳴らしても反応しなくなったけど、私も聴いてみると、クラシカルだが、メロディは才能がこぼれんばかりだと思う。なるほど、これは現代聞いても悪くない。

 思い出した。
 ビートルズの「ひとりぼっちのあいつ」だ。
 
 ロック好きだった元院長にはぴったりの曲じゃないか。どれ、BGMで仕事しようか。
 彼は少しさめたコーヒーをぐいっとあおり、マシンに向かいなおした。治療が一気にはかどるような気がした。

 気にすることはない。
 そう、皆も、あなたも、・・・彼に似ていないかい?

 (完)
 
・・・・・・・・・・
Doesn't have a point of view
Knows not where he's going to
Isn't he a bit like you and me?
 
何をどうという考えも持たず
自分がどこへ行くのかも分からない
君や僕だって どことなくあいつに似ていないかい
 
  「ひとりぼっちのあいつ(Nowhere Man)」ビートルズ

 この曲を聴きながら記してみました。20数年後もきっと聴かれているはず、と思っています。

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2008年05月30日金曜日「万歳!水滸伝」
 最初にお断りしておきます。今日は書評になります。

 北方謙三氏の「水滸伝」が抜群に面白い。
 
 水滸伝というと吉川英治、柴田錬三郎氏の両氏の小説作品が有名で私も好きで何度も読んだことがある。
 
 ご存じない方のために「水滸伝」を簡単に解説すると、舞台は中国の北宋時代(960〜1127)末期である。
 世は汚職官吏、悪徳大臣がはびこっており、皇帝は政治を放り出し、遊びに夢中。
 なにをするにも賄賂が横行し、市民は税金に苦しみ、まさに苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)の世だった。あれ?平成の日本?(笑)
 市井のあるものは悪徳役人に逆らったために逆に罪をかぶせられたり、またあるものは上司の理不尽な命令に背き、やむを得ず出奔した将軍たちなどのエピソードを軸に話は展開する。
 そんな硬骨漢たちが生きる場所を求めて「梁山泊(りょうざんぱく)」(パチンコは関係ありません)という要塞に少しずつ集まり、やがて悪徳大臣たちを倒し国を救おうという壮大なロマン小説だ。
 
 どれだけすごい小説かといえば、中国の四大奇書の一つであり、(他の三つは「三国志演義」「西遊記」「紅楼夢」)それに影響を受け、滝沢馬琴が著した日本風に翻案したものが「南総・里見八犬伝」と言われている。私は八犬伝はジュニア本でしか読んだことがないが、それなりにおもしろかったという記憶がある。
 
 水滸伝原典そのものの日本語訳は駒田信二氏が丁寧に行っている。硬質の文章だが、当時の雰囲気は濃厚に伝わってくるし、なにより、原本に最も近い。
 吉川英治氏の「新・水滸伝」は執筆連載中死去し、原作の2/3ほどの半ばで絶筆となっているが、話としてはちょうどきりのよく、まとまったところでの中断だったので、今読んでも鑑賞に堪えうる。
 
 が、今回の北方水滸伝、これは今までのものと全く違う。

 北方氏は以前三国志も「北方・三国志」として自由に新解釈を加えて、自分のワールドにこの著名な中国作品を引きずり込み、そのスタイルが受けたのか、たくさんのファンを獲得している。
 が、私は北方三国志には少々違和感を覚えていた。
 
 京劇ではないが、イメージといっていいのか、三国志は悪役と善玉が決まっており、今まで数多くある作品はかなりそれに縛られてきた感がある。
 それらを全部取っ払って、「男=漢(おとこ)」を描き出した労苦は十分たたえたいが、私も頭が硬直しているのだろう、主要登場人物の劉備玄徳は情の人であり徳の人、曹操は冷徹だが合理主義者でかつ、一流の政治家、でなくてはならないし、諸葛孔明は天が使わした神算鬼謀の軍師でなきゃなぁ、と思ってしまう。
 
 吉川英治、三好徹、陳舜臣、諸氏の「三国志」はみな私好みのステレオタイプで描かれているので安堵するが、最近まで連載されていた三国志舞台の漫画「蒼天航路」はべらんめい口調で無頼のやんちゃな劉備になっているのが、面食らってしまう。さらに「覇-LORD-」にいたってはなんと劉備は日本人!ここまで行くともうついていけない。(しかし、酒見賢一の「弱虫泣き虫諸葛孔明」はあまりの茶化しようについ笑ってしまう。これはアリかな)
 
 そのノリとは違うが、北方氏の三国志キャラの主要人物はセリフといい、行動といいとにかくカッコよすぎ。
 関羽や張飛の死の場面なぞは北方氏入魂のシーンだろう。あまりに悲壮すぎてここは涙なくしては読むことはできない。それはとてもよいのだが・・・

 また、原典では劉備陣営に入るまでの馬超は一方の独立勢力で、その戦場での強さは超人的であった。親の仇である曹操を再三追い詰め、彼を震撼させる。
 が、その曹操に計略で敗れたのち、馬超は劉備に合流することになるのだが、その後は精彩をはなはだ欠いてしまい、これほど強い馬超なのにいるんだか、いないんだかわからなくなってしまう。
 原典でのこの矛盾を北方氏は独自の切り口で、「なぜ馬超が歴史の舞台から沈黙したか」を解き明かす。そこも評価できる。 
 
 だが、人間はこれほど皆かっこいいわけではないのだ。ひとかどの武将は生死についていさぎよく、義や忠のために惜しげもなく命を散らしてしまうが、参謀や文官や政治家、貴族もみなこの北方カラーが匂い立つと、なんだかなぁ、と思ってしまうのだ。
 姑息、因循、卑怯、蒙昧な人物だって等しく存在したはずだ。三国志は様々な人間の織りなすタペストリードラマだと思うが、故に北方氏の持つ美しいロマンチシズムはこの舞台においてはひょっとして暴走気味だったかと感じている。
 
 でも、水滸伝はそれでいい。

 男はなんと言ってもカッコよくなきゃ(女性も3人ほどいますが)、天に選ばれた108の星を一つづつ持つ者たちは、しびれるほど好漢になり、入念に一人一人書き込まれている。
 原作では「なんでこんなヤツが選ばれた108人の中の一人なの?」というくらいしょぼいチンピラのようなものも入っているが、北方水滸伝ではそんな奴は一人もいない。
 
 というのも、原作水滸伝での最大のウイークポイントにあたるのだが、首領となる主人公の宋江(そうこう)の設定が実に理解に苦しむからだ。宋江は風采のあがらない色黒の小男で、梁山泊のトップになる前はただの地方公務員だ。
 武芸も苦手で、それなら知恵が回るかといえば、お世辞にもいえず、ただ義侠心にはあつく、親切であるという設定。言ってみれば金も力もなく風采もあがらない人のいいオッサンである。
 
 それが行きがかり上、はずみとはいえ愛人を殺してしまい、そのためあちこち逃げ回る。誠実な小市民というなら、この時点で迷うことなく自首するはずだが、どういうわけかそれもせず、宋江を知る名士にかくまってもらい、そこが危なくなると、アングラ社会を通って、つてを頼って行く先々で助けてもらう。
 が、たまに事情をしらない悪漢が宋江を襲ったり、毒を盛ったり、にっちもさっちもいかなくなるピンチがおとずれる。
 まさに危機一髪だが、宋江の名前を聞くなり、水戸黄門の印籠を見たかのように悪漢が土下座するのだ。
 「あの宋江様ですか!それは知らぬこととはいえ失礼しました。」と。
 結局、この時は悪漢だが、こいつらもみな初めて会ったはずの宋江に一発で惚れ込み、後々梁山泊で同志となる。
 なんじゃ、そりゃ!

 あの広い広い中国ですよ。なんで一地方公務員が単に義侠心があるってだけで全国に名前がとどろいているんじゃい!生協の白石さんか!(ちょっと違うか)
 ネットも新聞もないのに、そんな口コミがひろがるものなのか!?
 いや、たとえあったって、悪事は千里を走るが、そんな人のいいオッサンの噂なんかは町内会くらいまでしか広がらんでしょ。
 
 しかも宋江が逃げ回っている理由が、政府転覆という大それたものでなく(逃げている途中、酒に酔って勢いで壁に詩を書いたら、それがのちに反政府の詩と見なされ、その時点でやっとおまけに反逆罪がつくが・・・それもまた情けない)、殺意はなかったにしろ愛人の「傷害致死罪」だよ。
 こんなちょっと間の抜けた人が、海千山千の豪傑たちや、官軍を追われた正規軍の将軍たちも集う梁山泊に入るといきなり首領に推されるってんだから、一体なにがどうなってるんだか。
 原作での宋江はどうひいき目に見てもかっこよくないどころか、好漢の中でも一番みっともない部類に入るし、第一なんの取り柄もない無能男だ。
 
 さらに原作では梁山泊の勢力が次第に広がり、侮れないことに政府が気づくと「召安」(反乱の罪は許すかわりに、他の反乱勢力を倒せという命令、これが認められると梁山泊は官軍になる)というえさをまく。
 宋江は皇帝に対する忠義心は強く、それに飛びついた。梁山泊軍は政府軍となって各地を転戦、消耗戦を遂行することになる。集まった108の好漢たちが次々に戦死し、梁山泊が崩壊していく様が後半だ。まあ、政府の「毒をもって毒を制す」という目的はどうやら果たしたようだが。
 
 しかし、もし私が悪徳政府高官だったら、宋江の人の良さにつけ込み、召安を受けた梁山泊が喜び勇んで全軍あげて出撃した瞬間、皇帝を抱き込み応召を撤回させ、からっぽの本拠地を襲って、梁山泊なんて危ない集団、一網打尽にするのだがなぁ。
 だって、こんな奴らいつまでおとなしく政府のいうことを聞いてくれるかわからないじゃないですか?ネズミ花火みたいな連中ですよ(笑)
 政府は俺たちを「召安」なんて言って、実はだますんじゃないか?という当然の疑惑の可能性すら、宋江はともかくそばについている軍師たちが微塵にも疑わないのは非現実的きわまりない。
 また、現政府に一度反旗を翻したんだから、開き直ればいいのに、政府にしっぽふってしまう宋江は哀れを通り越して滑稽ですらある。
 
 この小説として破綻しまくっている原作・水滸伝を下敷きにして男の物語に仕立て直し、さらに宋江を首領にするのなら、徹底的に書き換えなければと考えたのが北方氏である。おかげで宋江は「静かなる男の中の男」に造り替えられた。これなら男たちは集まり、宋江をボスに仰ごうというものだ。最も不自然な召安などの政府の小細工は微塵もみられない。梁山泊は政府軍と謀略あり、正面切ってのぶつかり合いあり、文字通り血みどろの戦いをくりひろげる。
 
 この新作水滸伝での北方氏の試みは成功した、と私は考えている。この水滸伝こそが「原典」になってもよい力強さを持っている。
 歴史物や中国物が嫌いな方でも読むにあたって問題はない。中世中国に舞台を借りただけの「おとこ」の普遍的な物語だからだ。
 人間は何を心に持って生きればよいか、そしていかに死ぬべきか。いや、いかに生を全うすればよいのか。また、途中で倒れていく様々な好漢たちの願いを託す次代の主人公・楊令を創作し、その生き様も描き出す。これはもう買いでしょう。
 
 この話を進めていくと、とりとめがなくなるし、きりがないから作品を誉めまくるのはこのくらいにして、最後に108人の好漢の一人、梁山泊の医師を紹介したい。
 
 神医・安道全といい、原作においてでは、どんな病気でもケガでも何でも治してしまう凄腕の医師だ。あんまり腕がよすぎるため、このままでは怪我人や病人が発生してもかたっぱしから助けられてしまい危機感がなくなるためなのか、それとも物語が終わらないと思ったのか、後半で皇帝の病気を治すために首都に呼び戻されて、梁山泊の戦場から離脱することになっている。
 その後、梁山泊軍で怪我人・戦闘不能・戦死者が続出するのだ。まあ、ゴッド・ハンドという設定だからしかたがない。治療者をなくしてしまえば、あとは助からんけが人を作り放題、物語を閉じさせることも簡単であるが、これはひどすぎる。
 
 そこで、北方版だが、安道全はかなり早い段で登場し、最終巻まで活躍する。
 腕はすこぶるよいという設定は同じだ。それじゃ助けまくりか、というとそうではなく安道全の治療を受けても命を落とすものもいる。
 原作と大きく異なり、医療の限界をわきまえている常識的な感覚が好ましい。
 北方版でも刀傷の治療はもちろん、虫垂炎の手術も、精神的疾患の治療も見事にやってのける。ブラック・ジャックばりにぶっきらぼうで冷たい印象があるが、時々見せる優しさがたまらなくいい。
 
 患者で白血病を想定していると思われるシーンでは、「病気には治せるものとそうでないものがある」、といい、さらに、「すまぬ、医師として恥ずかしくとも思う、くやしくとも思う、だがその日が来るまで全力を尽くす」、と告げているし、「医術に絶対はない」、とも違う場面ではっきり言わせている。
 
 私はこの物語のサブキャラである医師にまで、作者はリアリティを徹底させているのに大変好感を持った。
 
 元々、水滸伝はファンタジーなので幻術やら天女やらが登場するものだったので、けが人を助けたい時は魔法でも秘薬でも使ってでもよいと思うのだが、北方氏はいっさいそのような非現実性を排除した。
 
 なにしろいいかげんだった梁山泊の兵制を独自に編み出し、命令系統も徹底し、また、あいまいだった資金源(原典では近隣からの略奪、それでは何万の軍隊を養うのに何年も持つまいし民衆の支持がえられないだろう)も新たに考えその組織を構築し、それをめぐる政府との攻防もストーリーに組み入れた。  
 そのリアリティを追求する堅牢な態度が先の医師の発言にまで及んでいるといっていい。
 
 文庫本で全19巻、決して短くないが(いやいや長いか!)あっという間に読めるし、なにより確実に泣けます!愛着の生まれた登場人物に思わず「ここで死ぬな!」と声をかけてしまいます。

 いやいや、今日は大脱線でしたなぁ。でも好き勝手、好きな本のこと書いたらすっきりした。また面白い本を探そうっと。

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2008年08月31日日曜日「シビれる史上人物・・・その2(上)
久方ぶりの夏休みのやっつけレポートって感じでしょうか(笑)
 
 これでやっと歴史の「シビれる」ものをシリーズ化することができました。シビれものはいくつかまだ隠し玉があるんですが、趣味に走る回数が多いと批判を浴びるので、ごくたまに思い出したようにアップしていきます。

 歴史に興味の全くないかたごめんなさい、m(_ _)m

 ・・・・
 あさのあつこ作「バッテリー」での登場人物、永倉豪は中学野球のキャッチャーである。
 
 同い年の主人公の剛球投手・原田巧の投げるボールを生涯受け止める、と決意する。原田は求道的(というより、「好き勝手」の方がぴったりくる)に「速い球を投げる」こと以外興味なく、天性の才能もあり投手として成長を続けるが、対して永倉は原田の球を捕りきれず、女房役としての力不足に悩む。しかし、努力を重ね永倉は立ち直っていく。
 人間的に原田はどこか欠陥があるかと思わせる描写が続くが、永倉はそんな原田を支え続ける。その純粋なひたむきさは心をうつ。永倉の方が主人公の原田よりはるかに読者の人気が高いと思う。

 一片の私欲なく、ひたむきに「補佐」をするということを決めた人物の生涯は美しい。
 
 史上人物、戦国武将でそのスタイルを貫いた男がいた。その人物は豊臣秀吉の弟である大和大納言・豊臣秀長である。
 
 豊臣秀吉は天下を睥睨するまでは物わかりのよいオッサンだった。
 
 冗談も理解し、自身もユーモア精神にあふれ、周囲に常に笑顔で接し、戦国武将随一、殺生が嫌いであった。それが、天下に敵がいなくなり、帝王同然の地位につくと、誇大妄想に陥り、にわかに老耄する。
 「日の本の統一の後は大明国(現中国)を平定する」
 などと世迷い言をいいはじめ、朝鮮に「唐入り」の道案内をしろと恫喝した。朝鮮が当然のごとく断ると、秀吉は朝鮮出兵という史上まれに見る暴挙に出る。
 
 あれほど性格的に明るく、人好きのする秀吉が、精神医学的にも情緒不安定になり、偏屈頑固オヤジになった直接の原因は、ちまたで言われるように跡継ぎと定めた愛児・鶴松(豊臣秀頼の兄にあたる)が3歳で病死したせいもあるだろう。
 だが、真因は鶴松の死の7ヶ月前に、秀吉を一身に支え続けた弟の豊臣秀長が病死したからではないだろうか。秀長という歯止めを失った秀吉はその直後から、自分にたてつくものは次々に粛清していくようになる。
 
 秀吉には最初から信頼のおける親族や部下がほとんどいなかった。尾張農民出身の秀吉には織田信長や徳川家康が生まれながらにして持っていた強力な家臣団がおらず、出世する上でも、また天下を取った後でもどんなに苦労したか想像に難くない。
 強力な天下人であったにも関わらず秀吉の最大の泣き所はとにかく「信頼の置ける譜代の部下がいない」「世継ぎがいない」の2点であった。
 その中で秀長はなくてはならないたった一人の頼りある弟だった。
 
 しかも、イエスマンでなく、いうところはしっかり苦言を呈する正真正銘の補佐役(ナンバー2)である。
 
 秀長は兄の口の端からたびたび出ることのあった朝鮮出兵も死ぬまで反対していた。表だって反対できるのは秀長だけであったが、苦々しく思う秀吉も弟とはいえ、豊臣政権内で重きをなす秀長の意見を無視することはできず、存命の間は無謀な企てはできなかった。少なくとも、弟の秀長が秀吉より長生きしていれば、「唐入り」はなく、後々韓国にあれほど(今でも)恨まれることもなかったのに、と悔やまれる。
 
 秀吉に成人した兄弟がいた、というのは結構知られてなく、比較的歴史に強い方でも盲点のようだ。それでも最近は大河ドラマなどで秀長が登場することが多く、認知度が上がったようだが、あろうことか「創作上の人物だろう」と思われる向きもまだまだ強い。
 なぜだろうと考えると、まず、歴史の教科書には絶対に豊臣秀長が出てこない、こともその一端だろう。
 
 「天下人の弟」で史書や教科書をにぎわすのは古くは天智天皇の弟、天武天皇(壬申の乱で天智天皇の子、大友皇子を倒して天皇位につく)、
 源頼朝の弟、義経(平家を壇ノ浦で滅ぼした天才将軍。後に兄・頼朝と不和、頼朝軍に衣川で討たれる)。
 足利尊氏の弟、直義(ただよし、足利幕府創設時、兄と二頭政治を執るが、派閥争いに発展し不和となり「観応の擾乱」を起こす。その後、兄・尊氏に暗殺される)
 
 これら三人の弟たちはいずれも兄(もしくは兄の子)と激しく争っているから、史書に残ったのだろう。
 
 秀長にはそのような形跡は全くなく、単独で史書に載せるほどの華々しい事績も見あたらない。だから、長い間忘れ去られた存在だったかもしれない。

 尾張中村郷で農業をしていた24歳頃の小竹(のちの秀長)の元に「サムライになる」と言って家出をしていた3歳年上の兄・木下藤吉郎が「わしに仕えないか」と訪れた。藤吉郎秀吉にとって、信頼できる部下がほしい、となれば、血縁を頼るのは必定である。
 おとなしい小竹は押しの強い兄に押し切られたのか、伴われて織田家に仕官する。このとき後の秀長は木下小一郎と改名した。
 
 それまで農民だったゆえ、武士の作法・読み書きなど一切心得がないはずなのに、物覚えがよいのか、数年で細かな書状などは苦手な兄(秀吉は終生、漢字などはめちゃくちゃな当て字だらけのものしか書けなかった)に代わりこなせるようになっている。
 
 小一郎が織田家に仕官して3年ほどたった頃、侍大将となった秀吉に竹中重治が出仕してきた。これが秀吉の初代参謀として名高い竹中半兵衛である。
 
 半兵衛は小一郎長秀(この頃は長秀と名乗っていた。以下秀長に統一)を観察し、秀吉とまるで正反対の性格の弟に興味を覚えた。木訥で冷静沈着でいながら、常に温厚さをたたえ人に接し、物覚えが非常によく、軽薄でない。仕事は過不足なくこなし、度を越すと言うことがなかった。
 
 半兵衛は「秀吉殿においては、なんと優れものの弟御だ」と感心した。これほど、舎弟が「ほどがいい」ことはまれである、とも思った。
 そして、秀長に弟としての「立ち位置」を懸命に教えた。いわく、「手柄を捨てよ」とのことである。
 半兵衛は史上の悲劇の兄弟(天智・頼朝・尊氏)を思い浮かべたのか、「兄君と決して張り合ってはなりません。あなたの手柄はすべて秀吉殿に帰するのです。」と言った。
 秀長は瞬時にその意味を理解し、そのときから歴史の舞台から自らを消そうと努力した。秀長の非凡なところはこの半兵衛の教えを終生守り通したことである。

 その後、秀吉の参画する戦いにはすべて秀長はかなめとして出陣し、仕事をきっちりとやりとげ作戦の齟齬を来すことはなかった。
 
 天正元年、秀吉が近江長浜城主に命ぜられると、秀吉の不在の時は城代となり、留守役を勤め、決して失敗することはなかったという。
 
 主人の織田信長はこの羽柴兄弟を気に入っているのか、または使い減りしないと思ったのか、八方に仕事をいいつけ、天正2年には秀吉が越前の一向一揆征伐にかり出されたとき、長浜城代で残っていた秀長に羽柴軍・秀吉名代(代理)として伊勢長島一向一揆征伐に向かわせている。
 このようなケースは織田軍団の用兵としてきわめて珍しい。
 
 伊勢攻めの総大将は織田家世継ぎの織田信忠である。それを補佐する部将に筆頭家老の柴田勝家、佐久間信盛、滝川一益などのそうそうたるメンバーのなか、ただの侍大将の舎弟・羽柴秀長が一方面部将をつとめることは格式からいってありえない。秀長の将としての力量を信長も周囲の部将も認めていたと考えられる。
 
 その証拠に、天正8年中国地方を平定しつつあった秀吉軍が但馬(兵庫県北部)の出石城を落としたあと、信長は秀長単独に出石城主を任命し、但馬7郡10万石を与えた。先に兄が長浜城主になっているので、兄弟そろって大名になったわけである。このような例はほかの織田家部将にはない。
 
 手柄を立ててはいけない、と言われても輝きを見せる秀吉の補佐官としての秀長の働きを、織田信長はかなり高く評価していたに違いない。
 
 秀吉の最も初期の家人・与力となった土豪衆の頭領の二人(蜂須賀小六・前野長康)も秀長に感じ入った組である。
 
 秀吉がまだ足軽大将だった頃、二人の元に織田家仕官の誘いに訪れた。
 しかし、秀吉の奔放な明るさに惹かれながらも、不信感が残り、踏ん切りがつかなかった。
 
 その後、もういちど秀吉名代として説得に来た秀長の誠実さにうたれ、ついに仕えることを決意したという。この二人は終生秀吉・秀長のそばを離れず、文字通り股肱の臣となった。(武功夜話より)
 
 余談だが、後に秀吉は蜂須賀小六正勝に長年の戦功に報いるがため阿波(徳島県)一国18万石を与えようとしたが、秀吉兄弟の側を離れがたい小六は辞退している。蜂須賀小六正勝は秀長より早く世を去ったため、幸運なことに老醜の秀吉の晩年に立ち会っていない。
 
 一方、前野長康は転封した秀長の居城だった出石10万石を与えられ、秀吉の甥、関白秀次の家老となる。
 が、秀次が「謀反疑い」で自害させられると、長康も息子景定ともども連座で切腹、前野家は取りつぶされた。
 
 この時分秀長は故人で、もし存命なら秀吉旗揚げからの臣である長康を決して殺させるはずもなく、第一、秀長ありし頃、秀吉は家臣を殺すなどということは一切していない。秀長亡くなった以降、秀吉は性格が激変した。長康はそれを知らずに逝った小六をさぞかしうらやんだことだろう。

 秀長をメインに据えた小説は驚くほど少ない。堺屋太一氏「豊臣秀長」司馬遼太郎氏「大和大納言」くらいである。
 
 「兄の影」に徹したため、事績がまるで残っておらず、おそらくどんな献策・発案もすべて兄秀吉に帰しているためだろう。秀長の仕事は兄秀吉がとっちらかした仕事をまとめて清掃したり、不備な点を補ったりすることが主であった。資料が少ないため、主人公になり得ず、また華がないからつまらない。それこそが羽柴家にとって半兵衛が望んだ秀長の姿だった。しかし、事績にはまったくあらわれない、スポーツで言うと「名アシスト」のような業績がよく資料を読み込んでいくと、次々にあらわれてくる。

 資料にはない秀長の事績の一つ、そして最大のものを私なりに想像してみよう。
  
 (続く)
2008年09月03日水曜日「シビれる史上人物・・・その2(下)
 秀吉の運命を転変させた「本能寺の変」は天正10年6月2日未明に起こった。

 秀吉にとって神以上の存在であった織田信長・信忠親子が明智光秀によってこの世から消滅した。その時、秀吉は中国地方の大勢力・毛利家と戦っており、戦線は膠着状態だった。
 この瞬間、本能寺の変を知っている織田軍団部将は、しでかした明智軍のみで、秀吉ももちろん柴田勝家、滝川一益、丹羽長秀らは京都から遠く離れた各方面において敵と交戦中で知るよしもなかった。
 
 翌3日深夜、秀吉は備中高松城(岡山市)で敵方毛利軍(清水宗治)と相対中「信長死す」を知る。(知った方法は諸説あり、後述する)
 秀吉軍は同時に東西から一瞬にして敵にはさまれるという窮地に陥る。
 秀吉は毛利軍との講和を急ぎ、城将清水宗治の切腹と引き替えに和睦。それを受け、翌4日高松城主清水宗治は切腹し開城した。信長の死は極秘に処したことは言うまでもない。
 
 6日午前、毛利軍が西に撤退したのを見届けた秀吉は同日午後から驚異的なスピードで山陽道を東へ向かう。明智光秀と戦う山崎天王山まで250kmをわずか5日で踏破した。これが有名な「中国大返し」である。
 
 そのことがどれほどありえないことか・・・これを現代の感覚で量ることはできない。その不可能事は兵の輸送の困難さことではない。

 武装した兵が一日あたり50km強駆け抜けること自体は後に賤ヶ岳の戦いで、秀吉が「美濃返し」と呼ばれる50kmを7時間で移動させた強行軍をしえたので、中国大返しも用意周到なら可能である。
 
 ここでいう「用意」とは武器輸送については瀬戸内海を使って海路で行えば兵は丸腰で走っていけるので負担が少ない。また、沿道には炊き出しや簡易休憩所を作っておけば落伍も防げる。マラソンの中継点を思い出していただければよい。こうすれば、他の戦国武将がびっくりするくらいのスピードで進軍することはできる。    
 元々、毛利討伐に信長自身の出馬を要請していた秀吉は山陽道から主君を迎える手はずを整えていたので、街道沿いの拠点には物資を集結させていた。その用意を利用しただけのことである。
 こうして物理的な輸送に関しては可能と思えるのだが、最大のポイントはそれではない。
 
 軍事上のキーワード「インテリジェンス」である。

 近代戦に限ったことではないがインフォメーションとインテリジェンスの区別は戦略・戦術で最重要要項である。和訳だとインフォメーション=情報とされるが、戦時用語だとインフォメーションはただの「データ」で、その裏付けを取り、間違いのないインフォメーション=データを解析したものをインテリジェンスと呼ぶ。
 
 戦国時代は情報を制したものが勝った。
 そんなことは当たり前でその3000年以上前から中国の戦略家・孫子が「敵を知り己を知れば百戦あやうからず」と言っているので、ただ兵が多ければいくさに勝てるというものではない。
 ガセネタをいかに見分け排除し、真のデータのみを分析できるのか。秀吉軍団の最も優れていたのがこの情報解析能力だった。

 ネットも電話もなく、通信手段が手紙しかないこの時代になぜ、「本能寺の変」が本当だ、と秀吉にはわかったのか?
 
 裏切った明智光秀のとった戦略は妥当なものだった。光秀の最もおそれたことは畿内の足場を固める前に、信長子飼いの軍団長が戻ってきて自分と戦うことだ。
 それを防ぐにはそれぞれの織田家派遣軍団長が今戦っている相手に
 「信長は死んだ。今相対している軍団は根無し草になる。これからは畿内を制した明智が当家に協力するから、存分に敵(秀吉・柴田・丹羽・滝川)を蹴散らしてもらいたい。」
 と手紙を送ること。これは上杉景勝、毛利輝元、関東の北条氏に実際伝えている。
 
 ところが、明智を助けるべく諸国大名たちの動作はきわめて鈍かった。その明智の書状は本物か?と疑う姿勢は百戦錬磨の戦国大名としては当たり前の行動であったからだ。
 それは陰謀かも、何かのワナかもしれず、一枚の書で行動を起こすほど彼らは単純ではない。
 自分たちの持つ情報収集ルートを通じて、「裏をとる」ことをしなければ、絶対に動かない。
 
 事実、毛利家、上杉家は「どうやら本能寺は確からしい」と判断したのは本能寺の変から10日ほど経ってからだった。そして、上杉景勝と相対していた織田武将・柴田勝家が「本能寺」が真実と認識し越前を撤収し、京に帰還したのは16日もかかっている。
 
 織田信長は軍律違反にきわめてきびしい。もし、秀吉に伝わった「本能寺の変」が誤報で、それを信じた秀吉が勝手に持ち場を離れて、軍を引き連れて帰還でもしようものなら、信長に対する「謀反」を疑われて、どんないいわけをしようとも
(「殿が討たれた、と聞いたものですから・・・」などと言っても)
 即刻打ち首であろう。
 だからこそ、情報の裏をとらなければ「大返し」などできない。その秀吉が本能寺の変を知ったきっかけは2通り伝えられている。
 
 巷間ささやかれ、またドラマなどでよく採用されるのは、明智の使者が毛利軍と間違って羽柴軍の陣所に迷い込んだ、という偶然説。だが、これは全くと言っていいほどあり得ない。
 
 高松城を水攻めにして囲う秀吉軍は東西に陣が延びており、数キロメートルまで先まで街道を封鎖していた。最重要事項を運ぶ密使は西に布陣する毛利軍に届けるためには街道沿いと北の山沿いの道を避け、両軍を分けている足守川を渡らないとたどりつけない。
 私が密使だったら、遠く迂回して南沿いから足守川を渡るだろう。川も渡らずに羽柴軍に迷い込んだのなら、わざととしか思えない。明智光秀は織田軍団一の怜悧で緻密な男である。毛利家に出す大事な使いにそんな間抜けを選ぶはずがない。
 第一、京と岡山は一昼夜ひとりで駆け抜けられる距離ではない。また、馬を使うのも無理がある。かがり火や誘導隊がいないと馬は夜間走れないからだ。秀吉の勢力下の街道だから、そんな怪しげな暴走者はいちいち取り調べを受けてしまうし、途中で捕まってしまうとそれこそ明智にとっては命取りだ。だから、明智方の密使がもたらした偶然説は荒唐無稽である。
 
 もう一つの説は秀吉と昵懇の関係にあった京奉行の茶人・長谷川宗仁からの知らせが届いた、という情報取得説。わずか1日半、36時間で備中まで届いたのだから、証拠はないが商船を動かせる立場の宗仁なら瀬戸内海路で船を使った、というなら可能であろう。
 しかし、以下のことを考えるとやや苦しい。
 明智に制圧された畿内から密書を送るという危険を冒し、(ばれたら命がないだろう)秀吉のために尽くしたのなら、戦後恩賞があってもよいはずだ。
 秀吉がその後、宗仁を重用した形跡はなく、褒美を出したという証拠もない。
 最重要情報をもたらした、にしてはその後の関わりが薄すぎる。私は宗仁かあるいは商人などの知らせは秀吉に対してあったかもしれないとは思っている、が、その情報だけで全軍を動かすインテリジェンスにはならなかったと考える。いずれにしても、受動的にそれを知ってから、裏付けをとるために京都に密偵を出すようでは、あまりにも遅すぎる。

 このとき、秀長の陣は羽柴軍中もっとも東寄りに取っていた。
 東は京都に至る街道沿いである。秀長の領国は光秀の丹波に接している但馬である。この時秀長の軍は最も京都に近かったのではと考えられる。
 この時期、羽柴軍の拠点は姫路城であった。この姫路から北へ抜ける道を取ると但馬出石(秀長居城)はすぐである。この秀長ルートを現戦線と京都の情報ホットラインにしていたのではないかと私は考える。 

 出石から丹波を通ると京まではすぐで、実際山陽道を真東にすすむ行程と40kmほど差があるだけである。京都になにか異変があると自動的に継飛脚のように情報伝達組織を作っておけばやはり1日足らずで岡山の秀吉軍に届く。秀長はこの任務のため最右翼を担当していた可能性はないだろうか。
 
 あれほど秀吉が素早い行動をとれたのは、宗仁から一報を受け取り、もう一つの情報ルートである秀長から
「それは確かだ」と裏付けがとれたのがほぼ同時だったのではないか。
 譜代の家臣ですらあっさり寝返る戦国時代である。
 秀吉は商人・茶人の手紙だけで自分たちの運命を決めるほどお人好しではない。自分の分身とも思い、仕事も確かな秀長が裏付けるなら、そこで情報は初めてインテリジェンスとなり全軍を始動させてもよい、と判断したのであろう。
 その時秀長が情報担当をしていたという証拠は光秀の領内である丹波の豪族・夜久氏に宛てた
 「情報収集に協力していただいて感謝している」という手紙が秀長のサインで6月5日付けのものが現存している。
 
 それらの情報を受けて「大返し」になったが、情報将校の役目のあとは秀長が言いつかったのは全軍の殿軍(しんがり)をつとめることだった。
 毛利がもし信長死す、のインテリジェンスを手に入れ、講和を破棄し秀吉軍を猛追する可能性だって残されている。もしもその時は姫路城で毛利軍を釘付けにして、城を死守する役目を受け持つ。それを秀長が任命された。
 もっとも危険で難しい仕事はいつも秀長だった。
 物事に絶対に動じない、いわおのような弟がいたために、秀吉は眼前の敵のみに集中することができた。

 毛利軍が本能寺の変の確報を得たのはかなり後になったことはいなめないが、秀長は毛利が動かない、という情報を姫路で察知し、すぐに明智本隊の戦いに追いつくべく、急追して畿内に駆けつけて光秀との天王山の戦いに間に合っている。
 秀吉としては秀長が参戦したことを受ければ、「毛利が追ってこない」という確証を得たのと等しい。後方の脅威がなくなった軍隊は士気が上がる。この時期、この兄弟には天が味方についていたとしか言いようがない。

 その後、天下統一までの戦いにおいて羽柴軍のすべての作戦に参画し、その才能を認められた秀長は四国、九州征討には秀吉に成り代わり名代として「総大将」で遠征している。
 
 この時期、秀吉は秀長を自分同様の者と内外に知らしめた時期であろう。これを大統領制と考えれば、秀吉大統領、秀長首相、と言っても過言ではない。
 しかし、秀長は功を誇ることもなく、すべての事績は兄秀吉に帰するように振る舞った。秀吉も、決して兄に対抗せず、譜代の家来もいない脆弱な秀吉政権を一手に助ける秀長に表立った感謝するそぶりはみせなかった。
 だが、きっと兄弟二人のみで会うことがあったら
 「今、おれがあるのは、われのおかげだ」と秀長の手を取って感激していたに違いない。
 
 その後、秀長は大和、和泉、紀伊の三国を与えられ、100万石を領した。官位は大納言に上り、本拠地が大和郡山城だったため「大和大納言」と呼ばれるようになった。秀吉政権下で最高位・最大俸禄である。(外様の徳川家康を除く)名実ともにナンバー2の地位に上り詰めた。
 
 大和国は奈良周辺で寺社が多く、土地に関しては寄進問題や上納金を納めない(寺社は治外法権のようなものだった)ことをことごとく収拾し、統治しづらい大和国を波風たたないように治めた。秀長の本分は実はこのような地道な内政家だった。大和紀伊国の政治姿勢は資料が沢山残っており、秀長存命の折は全く問題がなかったことがわかっている。
 それにくわえて、秀吉に呼び出されてはいつも、対外的な仕事が満載している。秀長の日常は兄・秀吉以上の忙しさだったかもしれない。この二人が存命中、豊臣政権は全くのゆるぎを感じさせなかった。

 秀長が秀吉政権で大きな力を持っていた証拠は九州の大名である大友宗麟が
 「内々のことは利休(千利休)殿に、おおやけのことは大和宰相(秀長)に相談するように」
 と国元の家来に送った書が残っている。しかし、豊臣家の幸福な時期はそこまでだった。過労やストレスも秀長短命の原因だったか?と私は想像する。
 
 あらゆる豊臣政権下の対外戦争に参画した秀長も天下統一の総仕上げである天正18年の小田原北条征伐には、病気で参加できなかった。前年から体調を崩した秀長は居城の郡山城で養生していたが、悪化の一途をたどった。
 「大納言。病篤し」の報を聞いた秀吉は狂ったようにあちこちの京都、奈良の寺社に平癒祈願を出している。だが、はかばかしい効はなく、秀長の病もいよいよあらたまった天正18年末、秀吉は軽装で大和郡山城にくだり、見舞った。
 これが兄弟最後の面会となった。

 公式には面会の子細は伝わってはいないが、「大和大納言」を著した司馬遼太郎氏の筆では感動的な対面になっている。
 小説家の想像だろうが、その描写は心を打つ。その部分を引用する。

 ・・・秀吉の見舞いをうけても、小一郎にはもはや頭をあげるほどの体力もなく、ただ顔をひきつらせていた。兄のために会釈の微笑をしているつもりだったのであろう。
 秀吉はひざをすすめ、
 「よくなれ、われによくなってもらわねば、豊臣の家はどうなる」
 と、声をはげましていた。この言葉が、小一郎の顔をむざんなほどに濡らした。涙が、とめどもなく流れた。小一郎にすれば、秀吉のそのひとことで、自分の生涯が意味づけられたと思ったのであろう。
                                                            司馬遼太郎「大和大納言」より

 秀長は年が開けてすぐの天正19年、51歳で死去する。
 
 小一郎秀長の人生は追ってみると、半兵衛が諭したように、いかに自分を抹殺するか、という生涯であった。彼の生き様はまったく間違っていなかった。お恥ずかしいことに私も司馬氏の小説を読み調べてみるまで、秀長の実在を知らず、架空の人物と思っていたくらいだ。
 
 だが、酷な言い方だが、全うすべきなら補佐するべき兄より長生きしなくてはいけなかった。
 彼の死後、すぐに豊臣政治は迷走し、坂を転がるようにして不安定になる。その後の秀吉の残虐ぶりは精神を病んだとしかいえず、筆舌に尽くしがたい。
 千利休を切腹させ、甥の関白豊臣秀次の一族を虐殺、朝鮮出兵・・・すべて秀吉の暗の仕業は秀長の死後に行われた。
 秀長は秀吉の負の側面である暴君化を身一つで止めていた、と言い切っても過言ではない。当時の人々が
 「豊臣家は大和大納言で保っている」とささやいていたのもうなずける。
 
 最後にもう一度「大和大納言」から引用する。

 ・・・(秀長が死んだ後、葬式に庶民が20万人集まったという記述の後)・・・
 参列した諸大名のたれもが、この大納言の死で、豊臣家にさし続けた陽ざしが、急にひえびえとしはじめたようにおもった。事実、この日から九年後、関ヶ原の前後にこの家中が分裂したとき、大阪城の古い者たちは、
 かの卿が生きておわせば・・・
と、ほとんどくりごとのようにささやきあった。
 (完)

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2008年10月12日日曜日「暦と日食(上)」
 なぜ2月だけが28日なのだろう?
 
 カレンダーを見て、そう疑問に思っていたのは小学校低学年の時だけだった。今となっては2月が日足らずなんて、朝起きて顔を洗うくらい、ごく当たり前の光景になっているので、全く頓着しないが、当時不思議なあまりいろいろ聞いてみたが、どの大人からも満足する回答は得られなかった。
 大人達はわからないから「そういう風に決められている」と言う。そう答えられたら、それでおしまいである。
 
 子供心に考えてみた。
 
 一年が365日なら31日の月が5つ、30日の月が7つでちょうどで切りがいい。たとえば1,3,5,7,9月を31日にすれば、あとは一律30日ですむ。閏年が4年に一回必要なら2/31を作って1日増やせばいい。こうシンプルにすれば不規則な小の月を覚えるのに「西向くサムライ(2,4,6,9,11=士)」などと覚える必要もないし、現2月のように他の月にくらべ、極端に日が足らない月を作らなくてすむ。
 
 ここからは子供の考えではないが、2月と3月が3日も違うのに同じ月給ってのはおかしいと思いませんか?
 2月にくらべて3月は3日も多く働きすぎてえらく損した気分になった方も多いと思う。私の考えた暦なら、労使どこからも文句はでるまい。それに、法律のことはよくは知らないが、「禁固一ヶ月」なんて刑をくらったら、2月のほうが1月や3月より3日ほど刑期が短くてラッキーとなるのだろうか?
 
 中学生になって、英語の教科書でまさにこのような暦の謎が扱われた章単元があった。
 もともと、1年の先頭は3月だったらしい。3月から12までの10ヶ月まで暦があり、農閑期の1,2月は暦がなかった。しかし、それではまずかろうというので「Jun」「Feb」の二月ができた。
 その「January」はローマ神話に出てくる二つの顔を持つヤヌス神を表している。ローマにおける戦いの神なのだが、前年と来年の二つを見る、という外観上の性質より「年の先頭」のシンボルとなったという話。
 次いで、ローマ皇帝になったシーザーが自分の生まれ月を強引に改名、シーザーの1stネームを使い、ジュリアス→July、ジュライとした。シーザーを継いだ皇帝アウグストスも同じように8月を割り込ませた(アウグストス→August)そうして以下の月は2つずつずれたということだったと記憶している。
 (Septは7、Octは8、Novは9、Decは10を本来表している。)
 
 しかし、それでも2月が28日しかない理由はわからない。その解答は現在はパソコンで簡単に調べることも可能である。最近、つい気になった折りに検索をかけたら、ものの1分くらいで答えがを知ることができた。長年謎だった割には拍子抜けである。
 
 実はそうだったのか、と積年の疑問が氷解したが、その理由が今回の話ではないので、割愛する。意地悪なようだがお知りになりたい方は、ウイキでもググリでも簡単に解答にたどり着けるので興味のある方はぜひお試しになるといいだろう。確実にウンチクとして自慢できる(はずだ)。

 暦はなかなか興味深い。
 織田信長と卑弥呼の死は暦に関わりがある、と言う説があるのをご存じだろうか。

 狩猟から農耕に生産手段をシフトさせてきた時から、人類にとって暦は必要なものとなった。
 いつ畑の準備をすればいいか、いつ種まきをすればいいか、肌で気温を感じて決めるわけにはいかないからだ。年ごとに気候が微妙に違うのは、暦があってもなくても実感できる。
 
 どの文明でも最初は月の満ち欠けをもって、暦の基本とした。
 毎日、空に現れて、なおかつ日ごと形が違うはっきりとした印は月以外なく、これを基にして作ったことは明白である。
 現代は月の満ち欠けと関係ない暦を使っているが、1年を12に分けた単位を「月」と命名したのは、月の周期の名残にほかならない。
 月は約29.5日で地球を一回転する。しかし、一年は約365.25日だから、当然12満ち欠け月では354日と11日以上太陽年とずれる。それを修正するために数年に一度入れられたのが閏月だ。
 
 いつどのタイミングで閏月を入れるとちょうどよいのか。
 
 それは19太陽年が235月とほぼ等しいことを発見されたことによって解消する。
 すなわち19年に7回閏を入れると、ぴったり合い、ずれが修正されるのだ。これはギリシアのメトンが発見したので「メトン周期」と呼ばれている。ほぼ同じ原理で古代中国で19年を「1章」と呼んで暦を作っていたので、どちらが先に発見していたのか定かではないが、メトンその人は紀元前400年の人というから、オリエント文明と中国文明の高度さには恐れ入る。
 
 このメトン周期でも、正確な1年とは約0.09日の差異が出てくるので、211年たつと本当の暦から1日のずれを生じるのだ。
 そこで時々改暦と呼ばれる調整が行われた。現暦のように、自動的に2/29をくわえるのではなく、ずれが蓄積されると時の政府が入れるわけだから、いいかげんなこともあったようだ。

 とはいえ、毎月1日は必ず新月であり、15日は必ず十五夜、当然3日は「三日月」である。潮の満ち引きも、暦通り整然としており漁師にとっても、潮干狩りをするにもありがたい。大空に浮かぶ月がカレンダーになるので、なかなか風流な暦ではある。

 が、13ヶ月ある閏年は一年がやたら長く感じただろうし、この閏月がある年はやはり本当の季節と暦は大幅にずれたことであろう。それを軽減するために、太陽を観察して、春分、夏至や立秋、大寒などの二十四節季が当てはめられた。
 
 天皇は様々な農作物を与えてくれる八百万の神に感謝を捧げる神官の役目を持ち、同時に暦を司る象徴であった。この「暦」を定めることが権力者のあかしであるから、朝廷のもっとも重要な仕事の一つであった。
 
 近世にはいって数百年使ってきた暦が狂いだし(それでも最大2日ほど、とのことだったらしいが)それが大問題になり、また応仁の乱以降、朝廷の指導・影響力も弱まり、暦がずさんになった。そこで、あちこちの地方政権で勝手な暦が作られ始めた。
 西欧では太陽暦に基づいたユリウス暦(ジュリアス・シーザーが制定)が1500年ほど使われ、どの国でも一般的だったので、それを宣教師ルイス・フロイスから聞いた織田信長は大変嘆くと同時に憤りを感じたらしい。
 
 かの地では様々な国が一つの正確な暦を使っている。それに比べ我が国はいったいいくつもの暦があるのだ・・・と。
 
 余談だがこのユリウス暦も長年の蓄積で狂いが生じ、代わりに教皇グレゴリウス13世が新暦を制定したのが、現在も使われているグレゴリオ暦である。その制定年がまさに信長が死んだ1582年のことだった。閑話休題。

 日本人は太陽暦を理解できず、ましてや、地球が丸いことも知らなかった。そのとき、フロイスが持ってきた地球儀を見て、家臣たち誰一人「世界が丸い」ということを説明されてもわからなかったが、信長一人のみ、「理にかなっている」と瞬時に理解した。
 その明晰で合理的な頭脳を持つ信長にとっては毎年大幅に狂って、閏という月単位で修正が必要な日本の暦に大いに不満だったろう。
 信長は、正確な西欧の暦にしろ、と「改暦」という朝廷の持つ特権に踏み込んだ形跡がありその文献も残っている。
 ために、恐怖した朝廷の陰謀によって「本能寺の変」が引き起こされたという説もある。もちろん実行犯は明智光秀だが、朝廷を重んじていた光秀なら懇願されたらありえない話ではない。光秀がその後政権維持に淡泊だったのは、朝廷のために信長を除き、古来からの暦法さえ守ればあとは悔いなし、と思えばこそ、とも解釈できる。あくまでも仮説ではあるが、革新を嫌う日本人には心理的に受け入れやすい。
 
 もう一つ暦と密接な天文現象がある。それが日食だ。

    ・・・(下)に続く
2008年10月18日土曜日「暦と日食(下)」
 日食などの天文現象は旧暦では必ずどの月でも1日新月の「旦日」に起こることになるが、その日食月の1日にに朝廷儀礼を行うことは大変不吉なこととされていた。
 ために、朝廷に務めていた暦・天文博士は日食がいつ起こるかを予測しなくてはならない。その時、彼らが発言した予測記録も文献として残っているが、「数打ちゃ当たる」ばりに、多く予想しているが、その割には結構はずして空振りしている。
 日食がある、といったのに実は何も起こらなかった、ことが多かった。
 
 朝廷の天文博士の面目は丸つぶれだが、その反対になるよりは、はるかにましだったのだろう。その逆が起こったときに、天皇・貴族の逆鱗に触れることを考えると、オーバーに予測しておいたというのは心理学的にはうなずける。そして、外れたからといってそれで職を解任されるということもなかった。天文学の基礎もわからず占星術的な予想では、21世紀の私どもだって、次の日食は当てられない。
 
 だが、天文学が高度に発達していた紀元前6世紀頃栄えたバビロニア(カルデア)では日本の天文博士の混乱とは対照的に日食が規則的に発生することはすでに知っていた。
 さらに、驚くべきことに彼らは日食が周期で起きることすら解明しており、18年11日でほぼ同じ条件の日食が巡ってくることを熟知していた。
 これを彼らは「サロス周期」と呼んでいた。
 
 このサロス周期でおきる日食は連続で同じ地域では起こらないのだが、3サロス周期=54年33日で、ほぼ同じ地域から離れた場所(約1000km北に移動する)、かつ同じ時間帯に日食が起こることも、気づいていた。今から2500年以上前のことだから恐れ入る。
 
 これを最近の例に当てはめると、来年2009年7/29に奄美大島付近で皆既日食が見られるが、その54年前にあった1955年6/20にフィリピンを中心に見られた日食がその「3サロス周期」前の日食にあたる。
 また1958年小笠原で見られた金環食*はその54年後、2012年京都地方で同じようにそのまま見られる。これは期待大だ。ここ関東地方でも95%以上欠けるので晴れていさえすれば十分観測できる。*
 
 バビロニア人にとっては日食なんぞは神の引き起こす現象でもなんでもなかった。

 そしてこのバビロニア人が発見した「サロス周期」を博学のギリシアの天文学者ターレスは熟知しており、この天文学知識をもって当時起こっていた戦争を止めさせようと考えた。
 皆既日食を予言すると、当事者の王にいい放ち、当然それを笑った王が「よし、オマエの言うとおりだったら戦争はやめよう」と言わせるようにし向けた。この物事の帰結は「サロス周期」を知っていたターレスの当然勝ちである。
 
 ドンピシャ的中したため、双方の王が本当に戦争を中止させたという。(紀元前565年)
 
 天文学が剣よりも強かったというこの佳話は痛快きわまりないではないか。
 
 日食と歴史の関連を調べ出すときりがない。
 
 日本でも古事記にあるアマテラスの「天の岩戸」伝説は日食を擬しているのではという説がある。確かに、アマテラスが天の岩戸に隠れた後の描写は皆既日食時の光景に酷似しているのでかなり有力視されている。
 アマテラス伝説は魏志倭人伝に登場する邪馬台国の女王卑弥呼に比され、興味深いことに、卑弥呼が動乱の中で死んだのがA.D.247〜8年前後だと記されており、この時期247と248年の二回も北九州〜対馬に至り日食が観測された。
 247年3/24に日没ぎりぎりと248年9/4、日の出直後である。
 特に247年の日食は日の入り直前に太陽がみるみる欠けだし、そのまま没する「日没帯食」と呼ばれる現象で、古代人はさぞかし恐れおののいたはずである。何しろ見たこともない真っ黒い太陽が西に沈んでいくのだ。彼らはそれを見て、思ったに違いない。

 翌日、太陽が元のまま光り輝いて登ってくれるのだろうか・・・

 暦を持たない弥生人は夜明けまでまんじりとしない不安な夜だったと想像できる。
 暦があれば日食などは月初めの新月日に必ず起こるので、少なくとも訳のわからない怪奇現象でなくなるからだ。
 
 卑弥呼は「日=巫女(ひ・みこ)」とも呼びかえられ、太陽を奉じるシャーマンだったらしい。そして太陽が欠けて沈んだ責任を取って死んだ(自死)か、殺害されたのではないか、という「日食による革命説」も有力な説と言われている。
 この日食が京都奈良をはじめとした畿内では見られなかったため、邪馬台国は北九州にあったという説を支持している人たちに受けがいい。
 卑弥呼死亡後、替わって男王が即位した、と魏志倭人伝には記されているが(神話ではアマテラスの弟神スサノオに比される)国の混乱がおさまらず、イヨ(またはトヨ)が女王になり、ようやくおさまった、との記述がある。
 なぜ、卑弥呼に替わった男王が失脚したのだろうか?
 それは、男王が即位してすぐ、翌年の9月に再び日食が見られたため、その男王も「太陽を欠けさせた」責任をとって廃されたのではないか、とすればつじつまが合う。

 関連も薄い天文学と考古学、どちらもスケールの大きいロマンのある学問である。
 正解はあるのだろうが、証明することはきわめて難しい。それ故、思考実験にはもってこいである。最近はDNAや発掘品の放射性元素を調べ、埋められた正確な年代を比定する科学的検証する考古学が発達し、真実をてらす核心に肉薄しますます興味深い。
 
 今年、ノーベル化学賞を受賞した下村博士の研究はオワンクラゲにあるGFPというタンパク質の発見だったが、現代実験医学の部門ではこのGFPは欠かせない物質となっている。
 このGFPを使ってガン細胞の動きをとらえることができるので、転移のメカニズムやガン治療効果などを調べるのにうってつけなのだ。
 GFPで書かれた医学論文は検索すると、瞬く間に数千件の論文がヒットする。それほどホットなアイテムなのだ。
 私は恥ずかしいことにGFPを発見したのが日本人だということを今回の受賞で初めて知った。
 学問の枠組みを超える研究は大化けする可能性が高い。そして、人類にとって大きな福音になることを期待している。
  
 疑問はそのままにしてしまうと、私のように何十年もそのままになる。「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」とはよくいったものだ。
 子供時代にはいくらでもそんなことがあったはずだ。子供はよくなぜ?なぜ?とありとあらゆるものに疑問を持つ。その中には大人から見て他愛のないものもあっただろうし、逆に「2月問題」のように、誰でもすぐに答えられないようなものもあっただろう。
 
 下村博士もこのクラゲがなぜ緑色に光るのだろう、と考えた素朴な疑問がノーベル賞まで届いた、ことを思うと子供の好奇心の可能性は無限大だなと改めて感心した次第である。

*金環食:2012年5/20関東では薄曇りの中観測できた。朝なので通勤通学中足を止めて観測グラスで見上げている光景が全国で見られた。

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2009年06月10日水曜日「血の継承」
新型インフルエンザも一段落した感がある。それは大変よろこばしいことだ。強毒性インフルエンザが現れた際、今回の経験がよい練習となったのならばよしとしなくてはならないが。
 
 今回は「皇室」というものを考えたい。とはいっても皇室万歳とかそういうことではないし、右翼であるとかそうでないとか、イデオロギー的なわくをはずして考えてみる。
 私的には「医学的」にみて、一日本人として、思うことを記す。

 明治時代に蜂須賀茂韶(はちすか・もちあき)という元大名がいた。阿波・淡路25万石の大藩の大名の身分で明治維新を迎えた。大名でも明治の世は生きにくく、四民平等になったあと、没落するものも多かった。だが、茂韶は殿様にしてかなり聡明で、自分の能力で独り立ちできた。
イギリス留学後、才覚を認められ仏公使、東京府知事を経て、後に貴族院議長・文部大臣まで務めた。
 あるとき、その茂韶が明治天皇に参内した。皇居の応接室で天皇を待っていた茂韶は手持ち無沙汰でふとテーブルを見ると上等の葉巻があった。煙草好きの彼はそれを何気なく数本失敬したらしい。ほどなく、天皇が入室されると、めざとくタバコがなくなっているのに気がつかれた。
 「蜂須賀、先祖は争えんのう」
 天皇は実にうれしそうに言われたそうだ。
 
 明治天皇のこのご発言は蜂須賀家の初代・蜂須賀小六正勝が尾張の盗賊あがりという伝説を受けてのことである。天皇はもちろん冗談で茂韶をからかって言われたのだが、明治の世の茂韶にとって、このお言葉はこたえた。
 その後、茂韶は知り合いの歴史学者を訪ね、「蜂須賀小六が盗賊ではなかった、と証明して欲しい」と依頼したという。
 それがうまくいったかどうかは知らない。たぶん証明できなかったのであろう。もしそうなら今の世の我々が「小六といえば野盗あがり」という伝説を知るわけがないからだ。だが、これは実に不思議な話である。
 なぜなら、蜂須賀茂韶は蜂須賀小六とはなんの血のつながりもないからだ。
 
 小六の血縁は8代で途絶えてしまい、9代目蜂須賀藩主は高松藩・松平氏からの養子であり、さらに茂韶自身も先々代(実父)は12代将軍徳川家斉の子であるため、蜂須賀茂韶は実は「将軍の孫」で生粋の徳川家の血筋といっていい。
 茂韶はそのことは重々承知の上のはずで、将軍家の血をひいている自分が養家の先祖・蜂須賀小六を天皇にひやかされても、平気の平左でいられたのではなかったか、と私は思う。
 しかし茂韶は本気になって「血筋をからかわれた」養家・蜂須賀家の汚名を晴らそうとした。これは現代からの観点ではよくわかりにくいことかもしれない。
 
 もう一つ別の例を引いてみる。
 蜂須賀のエピソードと同じ時期、会津中将・松平容保(かたもり)という大名もいた。おそらく、彼は明治維新で最もつらい目にあった大名だったろう。
 明治天皇の先君、孝明天皇にもっとも頼りにされ、全身全霊、天皇に忠実に仕えた。
 当時、京都は物騒な攘夷志士がうろうろし物騒な町並みであった。その京の治安を守るため、容保は京都守護職となった。天皇に懇願されると、さらに何事もかえりみず一身に奉公した。
 が、容保の政治的バックボーンであるその孝明天皇は難しい政治状況の中、突然崩御する。あとを即位した明治天皇はまだ幼少の身であった。
 すべての空気が刻一刻変わるそのころ、各藩は倒幕派につくか、幕府につくか、迷っていた時期でもある。
 容保もできうるなら、幕府と天皇家の間になって、押しつぶされたくなかったはずである。
 しかし、孝明天皇にあれほど頼られたにも関わらず、容保は結局、天皇の陣営と袂を分かち、幕府と運命を共にせざるを得なかった。それは出身が「松平」であったからではない。徳川に血筋の上でもっと近い親藩大名ですら、日和っていたのにもかかわらずである。容保を佐幕に閉じこめたその理由がまた前近代的であった。
 
 幕末、容保の代よりさかのぼること220年ほど、三代将軍・徳川家光に信頼する一人の異母弟がいた。
 保科正之(ほしな・まさゆき)といい家光はこの有能な弟を大変かわいがった。保科正之も兄である将軍の覚えによくこたえ、一所懸命、陰陽に家光を助けた。
 しかし、家光は弟に先だって若くして死去するが、その死に臨んだ際、正之をそばに呼び「徳川宗家のことを頼む」と遺言した。
 正之は兄のこの言葉にいたく感動した。そのあげく、家訓を書き、子孫に代々守らせようとした。

 「わが子孫は将軍家=幕府に対し忠勤をはげめ。もし子孫が将軍家を裏切った場合、家臣はその藩主に従ってはならない」と。
 
 この保科正之が初代・会津藩主であった(保科家は正之の子の代から松平を名乗る)。
 松平容保はその会津9代目の藩主であったため、この正之の遺訓にがんじがらめにしばられた。
 最後まで滅び行く徳川家を支えたが、それにもかかわらず最後の将軍・徳川慶喜にも見捨てられた。
 そうされても、容保はなくなってしまった徳川家を守り、あげく「賊」の旗頭にされ、会津で官軍の猛攻撃を受けて、ついに降伏する。
 死罪は免れたものの、会津松平家は流刑同然の扱いをされた。その後、下北半島の外れに流刑同然に追いやられ、家臣・領民たちは塗炭の苦しみを受けることになる。
 容保は天皇家に忠勤を誓っていたため、天皇の象徴である「錦の御旗」の官軍に攻められたのは身を切るよりつらかっただろう。徳川宗家を滅びるまで守れ、という先祖の遺訓がなかったら、容保は一も二もなく、天皇家を守護したはずだ。
 
 だが、容保は遺訓を守る必要がなかった。
 なぜなら、松平容保は保科正之の子孫でなく、高須松平家という小大名の子で会津家に養子に入っている。同じ松平だが、血筋は尾張・徳川家の分家なので、どこまでさかのぼっても正之にはたどり着かない。だから容保は正之の言う「わが子孫」にあたらない、ので極端な言い方だが、遺訓など破ってもよかったかもしれないのだ。
 
 江戸時代の伝統だの、しきたりだのは、こんなものだろうか。
 「血は水より濃い」というが、大名家では血より「家」がすべてを優先する。だからこそ、蜂須賀茂韶は将軍家の孫でなく蜂須賀「家」の当主としての行動をとり、松平容保も保科正之の遺訓を堅く守らざるを得なかった。
 
 私は日本史を読むたびに、考える。
 養子相続というのは伝統を保つうえで必要な措置なのではないだろうか、と。
 血のつながりなどいつか絶えてしまう。事実、蜂須賀家も会津松平家もそうであった。血のつながっていない養子・子孫はその「家」の名誉や立ち位置を真剣に考え、行動した。その姿を否定する向きは日本人の心情的にないだろう、と私は思う。養子も実子も伝統に染まっていれば、同じことではないか?
 
 名跡を代々名乗る歌舞伎界でも血のつながりは二の次だ。
 市川團十郎、松本幸四郎、尾上菊五郎、各氏すべて初代の直系の子孫でも血のつながりもない。
 芸と家、そんなことから皇族を語るのはもってのほかかもしれない。だが、そうしないと途切れるものだ、ということは男→男相続が遺伝的にいかに危ういものかとの証明であろう。
 
 こと皇族に関してはこの話は常にタブーとなる。
 私は皇室を神のようなものとは思ってはいない。そうではなく、日本の伝統と歴史を一身に背負われているありがたく、ほかをもってかえがたい一族の方たち、とは思っている。
 日本人としてのアイデンティティー、そのかなりの部分を担われ、諸外国からも一目置かれている事実は「天皇制」に眉をひそめる共産党ですら否定しないだろう。
 私は「血の継承」はさほど重視しない。ところが、それを発言するとこの国ではいきなり思考停止になる人々が多いので辟易する。それでは、歴史や日本人の感性を十分ふまえた上で、血の継承というものを医学的に迫ってみよう。

 母と胎児でも、胎盤・臍帯を通じてしかつながっておらず、血液は混じり合うことはない。例外はわずかにあるが、血液型の違う母子が正常に生まれるのはこのためだ。そして、男親に至っては血の一滴すら子供にわたらない。
親から子に伝わるもの、それは大多数の人がDNAと答えるだろう。
 DNAはしばしば「スピリット」としての意味にも比され、たとえば「創業者のDNAを受け継ぐ次期社長」、など血のつながりとは関係なく「変わらない」理念の代用として使うこともある。
 ところが、本物のDNAは変わらぬどころか、最も近いと思われる親子ですら、すでに他人の様相である。

 DNAを格納しているのが、23対ある計46本ある染色体である。22番目まではただの数字で呼ばれ男女の区別はない。男と女で決定的に違うものが23番目の染色体で、「性染色体」と呼ばれており特別な扱いを受けている。
 男性は「X」と「Y」を持ち、女性は「X」を二つ持っている。男の精子は46本の染色体をまっぷたつにした半分の染色体を積み込み(減数分裂という)この時、性染色体はXとYのどちらかが振り分けられる。つまりY精子とX精子の二種類が存在することになる。
 
 一方、女性の卵子の減数分裂ではもともと二つ持っている性染色体Xはどの卵子も一つ振り分けられる。精子と卵子が結合すると、合わさって46本に戻るがこの時、胎児の性を決定するのは精子に搭載された性染色体で決まる。すなわち精子にXがあれば、XXとなり女性。YがあればXYとなり男性となる。
 ややこしいが、性染色体Yは必ず父親から男の子にのみ継承されるということである。だから、男しか生まない、または女しか生まない場合、男腹、女腹と言われて、さも母に原因があるかのように言われるが、胎児の性を決めるのは男側の精子にしかないので女性になんの責任もない。
 それ以外の22対の染色体は受精時に両親のDNAがシャッフルを受けどんどん混ざり合ってしまう。単純計算で考えると、親子のDNA一致率は50%、孫で25%だ。10代離れると1024分の1しか一致せず、30代重ねるとなんと一致するのは10億分の1となり、もはや他人と何らかわりはない。
 たとえてみると、通常のドラム缶(200リットル入り)5本分の水の中にたった一滴の血液(1ml)が先祖の証しということと同じだ。残りの大量の水は直系のそれ以外の人たちの遺伝子となる。
 一人の偉大な先祖を敬うことに異を唱えることはしないが、30代隔てれば遺伝的にはその痕跡すら見出すことは難しい。

 ただし両親のシャッフルを受けない例外遺伝子がある。
 女性におけるミトコンドリアDNAは母からしか伝わらない。精子にももちろん同じDNAは積まれるがその精子ミトコンドリアはどういうわけか卵子と結合時に破壊され、必ず消滅してしまう。そのため、母から子には必ずこの母ミトコンドリアがそのまま受け継がれる。こうした性質をふまえ、母系の親子を調べていくと、すべての人類は20万年前にアフリカにいたとされる一人の女性にたどり着く。これが有名な「ミトコンドリア・イブ」である。なんと壮大な話か!
 余談だが、この「イブ」一人から人類が始まったというわけではない。共通の母であるけれども、その他の女性のミトコンドリアは現代まで伝わらなかっただけだ。(男児だけ産めば途絶える)
 男性にそのミトコンドリアDNAに代わるものがあるとすれば、先に述べたY染色体以外ない。Y染色体は母親がその遺伝子そのものを持たないため、父親から男児にほぼその形のまま伝わる。

 家と血の継承、という固い思いこみと、よすがを求めるとすれば、このY染色体こそが、そうであろう。2000年前の大和の人々がY染色体を知っていたとは考えられないから、男系継承になんらかの意義を見出していたのは偶然に違いない。
 神話の域を出ないが2000年前の神武天皇が存在したとして、(系図通り皇位継承しているとして)現皇太子殿下は同じY染色体を持つ者と言っていい。
 だから、女系天皇絶対反対論者はこの「Y染色体の尊さ」を大上段に振りかざす。女系になった瞬間から、Y染色体の継承は失われるからだ。
 
 余談だが、女系天皇と女性天皇は全然違うことに注意しなくてはならない。事実、我が国にも8人の女性天皇は存在したが、男系男子相続の基本は崩れておらず、いわばみな「中継ぎ」の天皇だった。
 英王室は女系容認である。現在、ウインザー朝であるが、エリザベス女王の子、チャールズ王太子が即位すれば、父・フィリップ殿下の姓を名のり、マウントバッテン朝・初代国王チャールズ3世になる。(正確にはマウントバッテン=ウインザーと名乗ることが決まっている。)
 
 父方姓を名乗り王朝交代になるのを認めることが、女系天皇容認で英王室と同じようになる。
 英王室は以前から我が国と違いY染色体には全く興味を示していないようだ。王朝交代だろうが、父系に王室を乗っ取られても無頓着に見える。もっとも常に歴代の女王のご主人はどこの馬の骨というわけでなく、ヨーロッパにちらばる王家の出身がほとんどだ。欧州はそういう共同体で王室を保持しているかのようにも見える。

 我が国でも、もし、皇太子殿下の第一皇女が即位した場合、その時点では女性天皇であるが、結婚し姓を手に入れれば(天皇家に姓はない)Y染色体の異なる王朝出現になる。
 日本の今までの女性天皇はいずれも独身であったか、夫が天皇であったため、女性天皇の子供の皇子は夫天皇のY染色体を持つ。ゆえに王朝交代にはならなかった。
 
 現皇室で若い男子皇族が誰もいなくなった数年前までは女性天皇即位の可能性は実にかまびすしく議論されていたが、41年ぶりに王子が誕生した瞬間に皇位継承に関する議論はたちやんだ。
 男性皇子が誕生した以上、もはや女性天皇は必要ないだろう、とみな思ったに相違ない。
 日本人の悪い癖は「ピンチになると神風が吹く」と本気で思っていることだ。あっという間に女性天皇論が姿を消したのがその証拠だ。これこそ、危機管理がとても下手で「泥縄式」だという証明ではないか。新宮誕生といっても男子皇族がほとんどいない事実にかわりはない。
 これだけ少子化が当たり前になり、側室を禁止している以上、近い将来再び皇統は先細り、または断絶になると思うのは私だけでないだろう。一息ついた今こそ冷静になれる。しっかり議論を煮詰めないといけないのではないか?強毒インフルエンザが発生し襲来してからマニュアルを作ろうとするものはいないだろう。あらゆる事態を予測して、対処するのが真の政治家だ。
 
 江戸時代に後桃園天皇が女児一人残し崩御した際、直系が途絶えた。そのため(現況によく似ていまいか?)世襲親王家である閑院宮家から迎えられたのが光格天皇である。光格天皇は血縁的には後桃園天皇から7親等離れているので、庶民に当てはめるなら法律上親戚ではないくらいだ。だが、実は現天皇家もその光格天皇の末裔である。
 親王家は大概天皇の兄弟が立つが、大寺院の法主になったりするので、そこで皇籍離脱してしまう。一方、血縁的にはどんどん離れてしまうが、世襲親王家というスペアの役目をする独立の家がいつも天皇家の危機を救ってきた。

 また、孝明天皇、明治天皇は正皇后に男児がいなかったため、二代続けて側室の庶子(明治・大正)が皇統を継承した。
 ひるがえって、現代このまま男性皇族が生まれず、秋篠宮第一皇子が即位する頃、姉宮たちや他家皇女がすべて降嫁して皇室離脱し、ご自分一人のみが「皇族」という事態が起こったら、どうするのか?
 こうなってはもはや「族」ではない、滅びゆくトキと同じ運命をたどる、と言ったら不遜だろうか。現状維持ならそのころ親王家もひとつもなくなり、もちろん側室なぞはおけない。新帝ご自身にもし男児が生まれなければそこですべて断絶である。
 新帝よりもお后になる方のそのプレッシャーたるや、どこぞの首相の比ではあるまい。私が女性だったら、どれほど宮様が好きでも、そんな日本全土から「男児を産め」と無形の圧力をかけられる結婚は金輪際お断りである。
 だから側室を持て、等の馬鹿な意見を吐くつもりはない。

 徳川家康という人は危機管理の達人だった。徳川将軍家を守るためにあらゆる方策を練った。自身9人も男児をもうけながら、万が一、将軍家に男児が絶えることを心配し、スペアとして御三家を作っておいた。
 そんな子だくさんなのに心配はいらんだろう、と当時は誰もが思ったことだろう。しかし、家康が亡くなって100年ほど経った頃、7代将軍・家継で徳川宗家が本当に断絶すると御三家・紀伊徳川家から将軍を迎えることができた。これが8代将軍徳川吉宗である。
 吉宗は家康のまねをしてさらに自分につながるスペアを「御三卿」として作ったが、これも孫の代・10代家治で吉宗直系が断絶するとすぐに作動し、将軍家の跡継ぎがとぎれることがなかった。
 子だくさんの家康にしてこうである。翻って今の皇室を見て断絶の危機を感じない人はいるのだろうか?自然にまかせて滅びるのならしかたがない、と言い切って知らん顔できるのか。現代に生きる私たち日本人が歴史の重みを顧みず、未来の子孫に「だって、皆様女の子しかいないから、しかたがなかったんだよ」と言えるのか?

 そもそも、Y染色体はそれほど大事なものなのか?と私は問いたい。
人間の体はほっておけばそのまま女性になる。動物はすべてメスが基本形なのだ。Y染色体は無理矢理それをねじ曲げて「男になるため」の様々な仕組み(といってもご存じ男性ホルモンの制作がほとんどと、男としての外見)の設計図だ。そして、それは「男」を作るための基本仕様で生命機能を維持するようなシステムなどの重大な情報はまったく書き込まれていない。
 さらにY染色体の中の遺伝子の大部分が意味のない羅列(ジャンクDNA)で、Y染色体遺伝子が指令するコードは全体の0.2%しか担っていないのだ。ぶっちゃけY遺伝子がまるまるなくても、生存は可能だ。(もちろん外見は女性だが)
 遺伝子に優劣などないが、「Y染色体の尊さ」を言う割には23対ある染色体の中で最も貧弱で頼りなく、いらないとまではいわないが必要条件ではない。Y染色体なんぞに高貴や劣悪などの規定すること自体笑止である。男らしさだの、筋骨隆々だの、また、いまはやりの草食系だの、そういう男としてのオプションの書き込みも、全くない。
 
 現代、中央アジア全域の広大な地域に住民の8%も占める約1600万人の男性が持つ共通のY染色体タイプがある。詳細な研究でその遺伝子は800年ほど前から突然現れ、急速に広がったことがわかっている。
 史上最大の帝国であるモンゴルを築いた大王チンギス・ハーンの登場年代と一致しているのだ。その染色体とは彼と彼の子孫の王族がばらまいたものにちがいない。
 チンギス・ハーンの遺伝子が手に入ればそれが彼のもたらしたものだと証明できるだろうが、彼の墓がわからないのであくまでも推測だ。
 が、まず間違いはなかろう。
 その1600万人の男性はどなたもチンギス・ハーンから「万世一系」男→男でつながっている「高貴なY染色体」を持つ人々なのだ。チンギス・ハーンの一族は版図を拡げるたび、女性には申し訳ないが略奪を繰り返したので、その子孫の広がり方のすさまじさは想像に難くない。生ませてはまた次、とばかり実に大変な数の一夫多妻だったろう。だから強力な王族のY染色体は希少価値などなく世界で最もありふれたものと言い切っていい。
 
 日本の皇族はチンギス・ハーン一族ほど、王ごと子供何十人などは生ませてはいないだろうと思うが、平安末期までは皇族の数が増えすぎて、姓を与えて臣下の列にくわえた。賜姓皇族といい源氏・平氏・橘氏はみなそうである。彼らの子孫だって男系遺伝を繰り返され現代に至れば、彼らの持つY染色体は現皇室と同じということになる。直系である必要はさらさらない。父親から男の子につなげば分家だってなんだって、Y染色体は一緒である。

 Y染色体の遺伝子を大事に思うというのなら、一体いつの天皇のYが珍重されればよいのか?チンギス・ハーンの例からいっても、古代天皇のY染色体は希少価値などまるでない。失礼な言い方だが、そこらへんで石を投げればあたるかもしれない。
 余談だが、私がいつか地方の病院に勤務していた際、タクシーの運ちゃんとひょんなことから歴史談義になった際、
「あっしはね、崇神天皇の末裔なんですよ」と言われてのけぞった。10代・崇神天皇!神の系図に近い。それはそれは、太古の世界である。チンギス・ハーンではないが、系図をさかのぼればどれだけでも子孫の数は増えるのだ。
 しかし、その時、私は私の家はきっとどこまで先祖をたどっても、そこまでの高見に登れないな。と、笑いながら答えた記憶がある。閑話休題。

 Y染色体そのものになんら価値を見いだせないとしたら、どうしたらいいだろう。
 
 おまえの言うことはわかる。血はつながらない、染色体ですらごちゃ混ぜになる。Y染色体ですら、ありふれたものだ。それでも「血のつながり」というのが大事なんだよ、と言うだろう。なんとなく貴重、貴種。全然違うんだよ、普通の人とは・・・
 それが2000年間、すり込まれた日本人の深層心理だ。
 ケガレという独特の感覚、汚れたものは先祖代々、血が汚れたままとするその差別感情が部落問題などに影を落としている。逆に高貴なものはいつまでも高貴、というケガレの思想の極にあたるのが皇室だ。
 
 平安期、皇室にツタが絡まるように各世代で女児を皇后にした藤原氏も分家が増えすぎて、政府の要職を占めた各藤原氏にランクがつけられている。いつだれがそうしたのか知らないが、よくもこれだけ決めたものだ。
 最高位の関白までなれる五摂家を筆頭にピラミッドのように藤原分家が存在する。藤原道長嫡流であるかないかだけでまず決まるのだ。太政大臣までしかなれない清華家、内大臣までしかなれない大臣家・・・同じランクでもさらに本家だの門流だので差別され、実に細かくわかれている。本人の能力は二の次であくまでも「家格」イコール誰それのY染色体継承ですべてが決まった。
 なんと日本的、でかつ「非科学的」なことか。どの藤原氏だって皆、中大兄皇子の盟友藤原鎌足、そして不世出の政治家・藤原不比等の遺伝子を引き継いでいるというのに・・・
 
 先細りしていくとしか見えない皇室はどうされたらよい?
 三笠宮殿下が以前ご発言されていたように戦後廃止された旧宮家を復活させ、世襲親王家としたらどうか?という説に私は賛成したい。
 付け加えるなら、これら親王家は皇室太子が結婚後10年男児生誕なき場合、養子としてお入りになり皇太子心得として教育を受けるという案はいかがだろう?
 その後もし実子がお生まれになっても、皇籍離脱せず、庶兄として、新宮家を創設していただき、新たな世襲親王家とする。あくまでも私案だが・・・旧宮家の方々も天皇家のY染色体をお持ちなのだ。そこからしても、Y染色体信奉者からも文句は出まい。

 伝統は血によって継承するものでなく、家のしきたりにより作り上げられる。天皇家の教育は小さいうち、それも幼少時よりから受けずしては決して身につかないだろう。天皇家が途絶えた、からと言って遠縁の思いっきり庶民の生活をした方を突然「陛下」に祭り上げるわけにもいくまい。   

 私は皇室とは「日本の歴史であり伝統」だと勝手に思っている。世界中でもっとも崇敬のまなざしを持って見られているのがローマ法王と日本の天皇であることは常識だ。それは共に最も古くから伝わるその国の文化と伝統のシンボルだからであろう。
 もちろん天皇家と違って、選出される歴代ローマ法王に血の継承などはない。が、バチカンの伝統と権威はY染色体となんら関係なく、ゆらぎもしない。
 蜂須賀家・会津松平家のように血の継承ではなく、先祖の伝統にしばられている。繰り返すが歴史とはそういうものだ、と思う。
 
 いくら口うるさく外野から皇室をどうしよう、と意見しても全くムダである。
 それは皇室のありようは「皇室典範」という皇族用の法律に縛られているからだ。その法律を変えることができるのは立法府である国会だけである。

 今危機的な状態の経済・国民の生活をどうしたらよいのかと考えるのが国会構成員の仕事であることは十分承知している。だが、この国のかたち、と歴史、そして未来の子孫のことを考えたとき皇室を抜きに果たして考えられるかどうか、宗教・思想を離れてじっと見つめると、おのずから「なにか考えなくては」となるのが一般の国民の思考だと思うが・・・

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2010年10月31日日月曜日「シビれる史上人物・・・その3(上)
 シビれる人物シリーズはいよいよ佳境です(笑)
 いろいろ趣味に走って申し訳ありません。しかし、今回は大向こうをうならせるつもりでやらせていただきます(笑)

義、の人であり情の人であった大谷刑部。
王佐の才を開花させ、ひたすら自分を消した豊臣秀長、を「シビれるシリーズ」で紹介して参りました。
 
 今回は歴史にはあまり登場する機会を持たなかったが、最も私がシビれる逸話を持つ人であります。
 それは誰かと申しますと・・・山岡鉄太郎であります。たぶん最も認知度が低いのでしょうけれど、それ故紹介いたします。
・・・・・

 「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」
 と、かの西郷隆盛が賞賛した武士がいる。

 その人とは山岡鉄舟のことである。西郷自身も多分に自分のセリフのような性格をもち合わせていたが、その西郷がカブトを脱いだというその人はどれほど無私をつらぬいたものだろう。

 山岡鉄舟は江戸末期の幕臣である。もちろん、敗残側なので明治維新の回天で大仕事をしたわけではない。
 が、その激動の歴史の大舞台に立ったことが一度だけある。その後、ひたすら「私」を滅し「公」という立場を体現した文字通り最後の幕臣(サムライ)であった。

 時は江戸末期、徳川15代将軍慶喜が大政奉還を宣言し、同時に260年続いた幕藩体制は終焉した。しかし、将軍を退いたとはいえ天皇を元首にすえ「立憲君主国」の首相として影響力を維持しようと画策する徳川慶喜に対し、下克上勢力である薩摩・長州・土佐藩は「そんなムシのいい話があるか」と猛反発した。
 今まで、この三藩ならずとも、討幕運動でどれだけの志士たちが幕府を倒そうとしては犠牲となり、しかばねを累々とさらしてきたのか。その鎮魂すら終えていないのに、幕府の頭である徳川慶喜がのうのうと新政権の要職につくということは心情的に許されることではなかった。これはもはや理屈ではなく感情の問題であった。
 
 おそらく「徳川憎し」の呪縛から逃れていた幕末の志士は坂本龍馬ただ一人だったかもしれない。龍馬は大政奉還後の政体構想を独自に練っていた。彼は徳川慶喜を首相もしくは議会設立後の議長につくことを提唱していたのだ。
 その構想を坂本から聞いた西郷はどう思ったであろう。西郷自身は寛容の男で慶喜を血祭りに上げるなどというリンチは到底好むところではない。しかし、西郷はあくまでも薩摩藩のサムライであった。薩摩藩の全体の意志をねじ曲げてまで徳川慶喜を許すような権限は持っていない。
 西郷も「革命はいくさを戦って、勝つことのみによって成し遂げられる」と述べているように、ターゲットはあくまでも幕府のトップである慶喜であった。西郷は慶喜を平和裡に政権交代させる坂本の大政奉還シナリオを聞き渋い顔をしたに違いない。

 余談だが、西郷はこの時、オヤという顔をしたそうだ。
 「坂本サン、この新政府の中に尊兄の名がおりませんが、どぎゃんしもしたかの」
 坂本龍馬が示した新政府の要職案に確かに龍馬の名がない。革命の中で命を的に奔走し、それを成し遂げた後、新政権に名を連ねないなどということがあるのだろうか?
 現代で言うなら選挙で大勝させた党の幹事長が組閣後要職につかないばかりか突然議員辞職するようなものである。
 
 龍馬は
 「ワシは出ませんぜ。役人は嫌いです。そうですな、世界の海援隊でもしましょうか」
 と答えたという。さすがの西郷もこれには驚き、二の句がつげず、そばにおり龍馬を高く評価していた薩摩藩家老・小松帯刀は「坂本サンにはもはや日本では狭すぎるのでしょう」といった。
 
 龍馬の一番弟子の陸奥宗光は
 「この時ばかりは坂本龍馬は西郷より一枚も二枚も大きく見えた」と絶賛している。残念ながら、この会談よりわずか1ヶ月ばかりで坂本龍馬は暗殺された。閑話休題。

 さて、大政奉還は成し遂げたものの、新政府側はその後の日本の舵取りの青写真を書けない。このままでは慶喜の思うつぼである。あくまでも武力革命をめざす薩摩・長州連合は策謀をもって、強引に鳥羽・伏見の戦いを始めた。
 この時、薩長軍は岩倉具視が下ごしらえをした錦の御旗を手に入れ、天皇の軍である「官軍」を名乗ることに成功する。それを見た慶喜は大阪城を引き払い、軍艦で江戸に逃げ帰った。まごうことなき敵前逃亡である。そうまでして逃げたのは、名誉などはどうでもよい、それにもまして慶喜は官軍に弓を引く「朝敵」になることだけを恐れたからである。
 
 留守をあずかる江戸城はいきなりの将軍の帰還に驚愕した。大政奉還しても公家や大名連合では政権運営ができず、組織が充実している江戸幕府の力をかりるはずと高をくくっていた矢先のことである。
 慶喜は武力反発を言いつのる旗本を尻目に徹底的に「不戦謹慎」の態度を貫く。大将がこの有様では、他藩も幕府を助けようなど思うわけがない。
 官軍が江戸に進軍する中途である近畿から中部に至る各藩はなだれをうって官軍についた。官軍は大軍にふくれあがり、慶喜の始末をつけるために怒濤の勢いで東海道をかけくだる。
 
 一方、江戸城では慶喜は、徹底抗戦を主張する奉行・小栗上野介を罷免した。慶喜はとにかく全面降伏するつもりであった。そして、官軍との交渉役にそれまで、嫌い抜いて冷遇していた勝海舟を抜擢した。
 
 勝は幕府きっての知恵者である。
 恭順という手段をとるとトップが決めたわけだから、もともとその説を唱えていた勝なら何とかしてくれるだろうと慶喜は考えたのだ。それまで勝をさんざん閑職に追いやっていて虫のいい話だが、慶喜にとってはそんなことはどうでもいいのだ。徳川の分がたつように計らってくれればよい。しかし、その能力がある者は周囲にはもはや勝海舟しか見あたらない。切れ者で通っている勝海舟を抜擢したのは当然といえよう。
 
 その頃、江戸では官軍にあくまでも対抗しようとする不穏分子がくすぶっており、また、官軍との和解が決裂でもしたら、戦争になるわけだから、勝はその準備と取り締まりに忙殺されていた。どんな交渉事もそうであるが、硬軟両方の備えをつけないと、ただの土下座交渉になる。勝はこういう外交交渉の呼吸を骨の髄から身につけており、一方的に負けてはいるが条件の悪い和解はしない、と決めていたのだ。
 
 勝自身はは火薬庫のような江戸を離れることはできない。そこで、勝は官軍参謀・西郷隆盛との会談の段取りをつけるため、槍の名手・高橋精一伊勢守を使者に選んだ。高橋伊勢守は幕府の槍術師範で徳川慶喜の身辺警護をしていた。高橋伊勢守は無口だが、誠実と質実剛健さを有しており、彼なら西郷の気迫に負けまい、と勝は考えたのだ。
 
 しかし、江戸は政情が不安で高橋伊勢守は慶喜から一心に頼られる存在だった。もし、高橋が江戸を離れた折りに、降伏反対論者が慶喜をさらい、担ぎ上げて官軍と戦う、ということにでもなったら平和交渉はすべて台無しである。特に当の慶喜がそのことをひたすら恐れ、「高橋はそばに置いてくれ」、と勝に懇願した。困った勝に高橋伊勢守は
「西郷との交渉は私以上に胆力がある義弟・山岡鉄太郎(鉄舟)にお任せあれ」と推薦した。
 
 勝は今まで山岡と会ったことがなかったが、高橋が言うなら、と山岡を呼び出し、話してみると高橋の言うとおり聡明かつ沈着な性格である。勝は安心して山岡を送り出した。これが山岡鉄舟の歴史デビューである。
 
 山岡鉄舟は駿府(静岡)まで来ている官軍の大本営に到着すると、西郷に面会した。
 
 山岡は圧倒的に弱い立場での会見だった。西郷は山岡と会談の場で人を量るようにおし黙っていた。しばらくのにらみ合いの後、山岡から口を切った。
 「なぜ、薩長軍は江戸へこれだけの大軍を進撃させるのですか?」
 西郷はすかさず答えた。「軍を進めるのは非道を鎮圧するためでごわす。」
 「では、主人徳川慶喜が謹慎しているのに、それでも無用ないくさを仕掛けようとするのはなぜでしょうか?」
 西郷の目が光った。
「山岡サンは甲州ですでにわが方と幕府軍との間に戦端が開かれるこつ、ご存じなか、ようですな」
 これは勝によって江戸を体よく追い払われた新撰組らが甲府付近ですでに官軍別働隊と戦争状態にあることをさして西郷はいう。
 山岡はひるまずに言った。
「主人がいくら恭順を示し、家来に戦うな、と厳命しても、君命に反して闘争したり脱走したりする奴らはどこにでもいます。だからこそ、慶喜の本当の気持ちを伝えに私がここに来ているのです。」
 
 西郷は山岡をじっと見つめ長い間沈黙した。山岡の器量を推し量っているのかもしれない。西郷の沈黙というのは交渉相手には大きな重圧だった。
 何しろあの体、あの光る目でにらみつけられたら、並の者では冷や汗をかくばかりではなく、思わずはいつくばってしまうであろう。
 
 山岡は臆せず西郷にたたみかけた。
 「西郷先生にこの道理がおわかりにならぬなら、私の役は失敗・不調ということになり、辱めを受けた私は死を選ばなくてはなりません。私はそれでもかまわぬ。が、私と同じように考える旗本は江戸にたくさんいます。徳川はともかく日本の将来はどうなりますか?」
 
 交渉決裂になれば、慶喜はともかく、徳川のために命を捨てる武士が江戸にはいくらでもいる。それと戦う官軍だって無傷でいられない。おそらく血で血を洗う凄惨な戦いになるだろう。
 と、山岡は逆に西郷を脅したのだ。
 内乱になれば英国やフランスが幕府軍や薩長に武器を売りに暗躍する、そのどさくさをぬって諸外国に港を香港やマカオのように租借地として乗っ取られる可能性もある。内戦などしていて日本の将来はどうなる、と山岡が言ったのはこのこともある。西郷はそのことはすぐに理解し、はじめて笑みを浮かべた。
 「ナルホド、わかりもした。山岡サン。」
 そして西郷は江戸総攻撃の中止条件を示した。
 
 城、兵器、軍艦をすべて引き渡すこと
 城中の人間をすべて向島(隅田川の反対側)へ移すこと
 慶喜を備前池田藩に預けること

 山岡は即座に「よろしい」と答え、ただし、と付け加えた。
「私は最後の一条だけは、どうしても承諾できない」
 それとは慶喜を池田藩に身柄を移すことである。

 それまで好意的だった西郷は顔をこわばらせ、初めて恫喝した。
 「朝命でごわすぞ」
 幕府の無条件降伏は嘘だったのか、条件にけちをつけれる立場か、との勢いである。
しかし、山岡はひるまなかった。
 おそらく西郷におどされて一歩も引かなかった男は山岡くらいのものだろう。交渉事というのは気合いである、と実によくわかる典型でもある。(中国になめられっぱなしの現政府は知っておるのでしょうか?)
 「私の一存だが、これだけは承伏できません。」
 西郷は怒ると雷鳴のように怒気を全身から発する。
 「朝命でごわす!」西郷はこの答え一つがすべてと言わんばかりだ。
 
 対して山岡は静かに答えた。
 「私は徳川家の家臣です。私の主人は反乱を起こしたわけではないが、朝廷により罪があるというのならそれも承知しましょう。
 だが、その体をよその藩に預けるということだけは私は絶対に承諾できない。
 西郷先生。立場を替えて見てください。もし、島津公(西郷の主君・薩摩藩主)が罪を犯し、よその藩にその命を預けるという申し出があったら西郷先生は家臣として藩士としてそれをお認めになるのですか?」
 
 西郷はたちまち相好をくずした。
 主君を売り渡すことなどサムライとしての分がたたない、死んでも承諾できない、という山岡の言がもっともであると悟ったからだ。現代からの感覚では少しわかりにくいかもしれないが、サムライというのはそういうものであり、西郷がそれを踏みにじる条件を出したのも、最初から「幕臣」には忠義などないものだ、と考えていたかもしれない。
 そして、このことがきっかけで西郷は大の山岡びいきになり、冒頭の「命も、金も、名誉もいらぬ・・・」という言葉を引き出す。さらに、幕臣は腰抜けぞろいだと思っていた西郷の意識修正につながっていった。
 これだけ骨のある旗本が江戸にはいくらでも残っているなら、戦闘で徳川をたたきつぶすなど、できる算段にない。
 山岡の交渉は成功した。直後に勝と西郷が直談判し、江戸無血開城への道がすんなりと通ることになったのだ。山岡はこの歴史の舞台のほんの序幕に登場し、そしてすぐに姿を隠した。

 ・・・(続く)
2010年11月01日月曜日「シビれる史上人物〜その3(下)」
 山岡鉄舟は幕臣・小野朝右衛門の五男に生まれた。幼名・小野鉄太郎。
 
 小野鉄太郎は千葉周作門下・北辰一刀流を学んだ。四人の兄たちは他家に養子に出たり早世したため、五男でありながら小野家の家督を継ぐことが決まっていた。鉄太郎は槍術も習っており、稀代の使い手とされた山岡静山にも師事していた。
 
 山岡静山は槍だけでなく、書も達人、まさに至誠の人であった、と鉄太郎が後に述懐している。
 洋学者・中村敬于も「山岡静山伝記」を書いているが
 「剛毅質朴で人倫に篤く、貧乏だったが弟子門人が絶えず道場をにぎわしていた」
とのことである。この武士の典型のような静山が子もなく27歳で急死した。 
 
 山岡静山には弟が一人いた。高橋家に養子にすでに出ており後の幕府槍術師範・高橋精一伊勢守である。このままでは、山岡家が断絶することになってしまうが、他家をすでに継いでしまった精一が継ぐわけにはいかない。そこで、高橋精一は静山の一番弟子である小野鉄太郎に山岡家に来てくれまいか、と頼んだ。
 
 小野家は600石以上の中級旗本であるが、山岡家は100石に満たない小身武家である。
 現代で言うと、1/6以下の給料になる会社に来てくれ、と頼むようなものだが、静山を深く敬愛していた鉄太郎は静山の妹・英子と結婚し山岡家に入ることにした。
 「金もいらぬ」面目躍如の山岡鉄太郎の誕生である。
 
 時代は激動の幕末維新の世である。しかし、山岡は幕臣として日々の勤めを怠らず、剣・禅・書の修行に没頭し、後に高士・山岡鉄舟と呼ばれるほどに精神性を磨くことが自分の仕事と決めていた風でもあった。
 
 江戸開城の明治維新後、山岡鉄舟は西郷隆盛にまだ若き明治天皇の侍従になるよう乞われる。
 それまで天皇は奥をあずかる女官に囲まれて過ごし、神事だけを扱うならそれでよいかもしれないが、その天皇教育では立憲君主国の強いリーダーとしては育たない、と西郷らは考えた。そこで、天皇のお側につく侍従には質実剛健・忠誠無比な人物が選ばれた。
 
 薩摩からは明敏な頭脳を持ちながら、武士そのもののような剛毅さを併せ持つ吉井友実・村田新八らが侍従になり、旧幕臣からは山岡鉄舟に白羽の矢が立った。西郷は山岡との会談を強烈に覚えていて、彼ならば天皇を立派にお守りするだろうと考えた。
 しかし、山岡は官軍に敵対した徳川家の家臣であるから、天皇のお側にいられないと断った。
 西郷はあきらめず説得する。
 「山岡サン。おはんならおわかりなさるはず。もはや官軍も幕府もなか。日本国をおはんの忠心で助けてもらえんだろうか。」
 西郷のたっての願いに山岡はついにおれる。
 「わかりました。ただし、それでも私は徳川の武士なので、陛下が立派になられる10年間だけお側に仕えます。」とこたえ、明治天皇の侍従になった。
 
 この時代の侍従とはボディガードはもちろんだが、まだ年若い天皇の教師役でもある重大な仕事だった。旧幕臣の中には山岡が新政府に取り込まれた、と眉をひそめるものもあったが、勝海舟はそれを一笑にふしている。
 「山岡は国の忠臣だよ。侍従になったときオレに下手な歌を見せるのさ。
 『晴れてよし/曇りてもよし/富士の山/もとの姿は/かわらざりけり』
 ってね。見ろよ、至誠の人だね」と海舟は書き残している。
 この歌には私は山岡鉄舟である、批評はご随意に、私が国を思う気持ちは幕臣だろうが侍従だろうが変わらない、という意が隠されている。
 
 明治天皇はそんな山岡を一心に頼りにされ、明治14年に東北巡行で長く皇居を空ける際、皇后陛下に
 「山岡が残っておるから、心配しないように」と言われたそうである。
 天皇は乗馬と酒を好まれ、長じて豪傑肌になられた。山岡ら侍従の働きもあったかもしれない。しかし、時には山岡らも手に負えないほど、酒量が増えたとのことである。これには山岡も閉口した。
 
 ある時、天皇は酔われて「山岡、相撲を一番とるぞ、立て」と山岡に飛びかかった。山岡は「それは恐れ入ります」と相手にしない。
 山岡は剣もそうだが武道の達人である。どう組み敷いても山岡が倒れないので、押し出そうと試まれるが、山岡が体をかわした際、天皇はもんどり打って額から倒れてしまった。見ると額面にすり傷を負っている。他の侍従たちが青ざめて、天皇を治療のためと称し数人で運んでいってしまった。
 天皇に傷をおわせた・・・侍従官長は山岡に陛下に謝罪しろと迫った。責任問題ではすまされないことである。
 しかし、山岡は「謝罪する筋はござらぬ。そして陛下に申し上げたきことがあります。」と突っぱねた。
 官長は「何をいっている。すぐに退出し、謹慎せよ。第一、陛下が組み付かれたとき君が倒れればよかったのだ」という。
 山岡は怒気を含んで返した。
「そもそも君臣が相撲をとるということは、君臣争う、というこの上ない不道徳なことです。それゆえ、陛下と相撲をとったという事実はなくさなくてはならない。だから倒れるわけにいかなかったのです。(勝負がつけば相撲したことになる)
 さらに陛下がお酔いになって臣下と相撲をとったと事実になれば、陛下は後世の者に稀有の暴君として呼ばれることになる。陛下がご負傷されたことはおそれおおいことであるが、後の陛下のご傷心(ここでは暴君と呼ばれること)を思えばやむを得ないことと存ずる。この山岡の心を陛下に申し上げるまではこの場から一歩も動かない」
 
 翌朝、酔いからさめ山岡の諫めの言葉を聞かれた天皇は「朕が悪かった、と山岡に伝えよ」と言われた。しかし、一睡もせず別室に控えていた山岡は天皇のお言葉を聞いても
 「悪いとおおせられただけではこの場を去るわけにはいきませぬ、何か実行されるようお示し願いたい」とこたえた。
 困った天皇は「今後、酒と相撲はやめる」とおおせられたという。
 山岡は感激して、
 「さようつかまつりました。そして、玉体に傷をおわせた原因はこの山岡にもあるので謹慎いたします」とこたえ自邸に1ヶ月謹慎した。
 
 1ヶ月後謹慎がとけた山岡が宮中に参内した。その際、天皇に葡萄酒を献上した。
天皇は大変機嫌がよろしく、帰ってきた山岡に会い、
 「山岡、もう飲んでもよいのか」と仰せられ、山岡の目の前で葡萄酒を召し上がったという。

 まさに剛直、そして天皇に対してでもおそれず間違ったことは諫める、このような山岡を天皇は心底大変頼りにされた。
 明治15年、山岡は西郷との約束通り、侍従を退くことにした。
 10年期限の約束した相手の西郷はその5年前、西南戦争で今は亡く、約束を守る相手ももういないのだ。天皇も側近も
 「山岡を下野させるのは惜しい」とこれまで通り侍従であるように要請していた。しかし、山岡は「西郷先生との約束を守らせていただきます」ときっぱり引退した。
 
 政府の高官は山岡のような影響力の強い旧幕臣は下野してもらいたくないことが本音だった。民主国家の産声を上げた日本はまだ未熟で憲法も議員内閣もなく、明治政府に反対する不穏分子は各地に存在した。そんななかで旧幕臣は反政府の旗頭にされる可能性だってある。
 
 伊藤博文は山岡鉄舟に叙勲をすすめた。それは、官位を与えて叙勲すれば政府に取り込めずとも反対勢力にはならないだろうと考えたからだ。
 そこで井上馨外務卿に勲章を持たせて、隠棲した山岡のもとに行ってもらった。
 
 叙勲の話を聞いた山岡は井上に言った。
 「自分はいったい何の功があって叙勲されるのだ?」
 井上は怪訝そうに「天皇の侍従を10年務めた功だ」と答えた。
 「それは仕事である。仕事中はずっと給料をもらっていたから、そんなことが功になるはずがない。それであなたは叙勲されているのか?」
 と山岡は聞き返した。
 井上は胸を張って「私は明治政府の高官であるし、維新政府を成立させた功があるので当然だ」と言った。
 「そんなことは国民として当然の仕事だ。仕事をやり遂げたらなんでも叙勲なのか?」
 さすがにここまで言われて井上は怒りを発し、自分の功績を知らんのか、と言わんばかりにまくし立てた。
 
 井上は幕末長州藩の過激派武士で、ばりばりの尊王攘夷派であった。高杉晋作らと英国公使館を焼き討ちにし、幕府の長州征伐後、その講和のさいは広沢真臣と藩代表となり幕府側の勝海舟と会談している。その後、明治政府では外務卿や大蔵大臣など歴任した。
 井上は後に鹿鳴館などの建設に力を入れた。
 長州時代に幕府に対し恭順派の武士に襲撃され、体を数十カ所切られ瀕死の重傷を負う。その傷も尊皇派として国家に尽くした証拠である、と畳を叩いて強弁した。
 
 それを聞いた山岡は微笑した。
「私は官軍と幕府の江戸決戦を未然に防いだ。そうしていなければ、国家を内乱におとしいれ、国民を塗炭の苦しみに追いやり、外国の軍事介入を招いたかもしれなかったのだ。だが、それは仕事をしたにすぎない。それで勲章をもらおうとは思わない。失礼だがあなたの刀傷がどれほど重傷だったかは私は知らないし、そんなことはあなたの一身上の都合による自慢話ではないか」
 山岡の言葉は辛辣だが、痛いところを突かれたのだろう。井上は憤然として勲章を持ち帰って行った。
 
 これが山岡の「勲章拒否事件」だが、彼のこの性格は生前から西郷が見抜いていた通りだ。
 伊藤・井上もこの名誉もいらず、の山岡だけは「始末に負えない」と改めて思ったことだろう。
 
 余談だが、剛直な山岡を愛してやまない明治天皇は山岡の死後、勲位と官位を追贈している。
 勲二等、従三位、子爵・山岡鉄太郎。
 ただし、海舟は笑って「もし本人がそれを聞いたら、さぞ笑うだろうよ」と皮肉たっぷりに言ったという。山岡はそんなことは喜ばないだろう、と。確かに生前でも陛下がどんなに山岡に勲章を受け取れと言われても、きっと山岡は固辞しただろうから。
 山岡の葬儀は大雨の中行われたが、葬列は回り道して皇居御所の前を通り、そこで10分間葬列を止めた。
 その時、明治天皇が高殿に登られて山岡を目送されたという。元・臣下の葬式において天皇が葬列を見送るということは異例中の異例のことであった。閑話休題。

 そんなこんなで、侍従をやめてから当然、山岡家は貧乏に明け暮れた。山岡が師範する剣道場では月謝など払えない生徒が多すぎ、また、山岡家に住み込みで居候する書生があっちこっちでごろごろしていた。山岡家の生計は達筆の山岡に揮毫してもらいたいという書の代金でまかなった。しかし、そのなけなしの生活費も金に困った書生が来ると惜しげもなく渡していた。山岡家の台所を扱う奥方の苦労は並たいていのものではなかったであろう。
 
 山岡鉄舟は明治21年53歳で亡くなる。
 盟友・勝海舟が山岡の臨終を書き残している。

 「山岡が危篤だと聞いて、訪ねたところ、息子の直記が出てきておれが『おやじさんはどうだ?』と聞くと『もうすぐ死ぬだろう』と言ってます、というのさ。おれが入ると大勢集まっていて、その真ん中に鉄舟が禅坐して真っ白な袈裟をかけてじっとすわっている。
『先生、ご臨終ですか』とおれが言うと、鉄舟が目を開きにっこりとして
『先生、よくおいでなさった。ただいま涅槃の境に進むところです』
 となんの苦もなく答えた。そこでおれも言葉を返して『よろしく御成仏あられよ』とて、その場を去った。
 あとで聞くと鉄舟は自分の死ぬ日よりはるか前に予期して間違わなかったそうだ。臨終には回りの皆に笑顔で接し、絶命してもなお正座をなし、びくとも動かなかった。山岡はこのような有様だったから、いかに武士道を会得していたことか。」
勝海舟と山岡の臨終の会話は洒脱である。死ぬところですか、などと聞くやりとりは普通なら縁起でもない、という域であるがそれを通り越して、臨終においてもこの二人の強い精神の結びつきを感じる。
 
 山岡の交友人の多彩さも彼の人柄を現していよう。
 
 落語家、初代・三遊亭円朝(大円朝と呼ばれた人情噺の名人「文七元結」の作者)もその一人で山岡の死まで親交が深かった。
 山岡の臨終のさい、回りの人があまりにも神妙な顔をしているのに一人ニコニコしている山岡が
 「みんな湿っぽくていけねぇや。円朝さん、何か楽しい噺でもしてくれないか」
 と頼み、円朝は泣きながら一席話したという。
 円朝は明治33年亡くなるが、山岡の墓のそばに葬ってくれ、と遺言し、今は谷中全生庵に山岡と寄り添って眠っている。おそらく今でも山岡のそばで一席聞かせていることだろう。
 
 侠客として悪名高かった清水の次郎長は静岡滞在中の山岡と知り合いその人物に深く傾倒し、博打などをやめ、清水港の整備、茶の栽培、英語教育の私塾などの公的な事業に力を入れるようになる。もし、山岡と知り合わなければ、ただの博徒やくざで終わっただろうと後世の人はいう。
 
 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は松江中学の教諭に赴任した際、島根県知事・籠手田安定(こてだ・やすさだ)に会った。
 剣の名人の知事と聞いていたハーンは会うまでは少しびくびくしていたが、その第一印象を
 「ゆったりとした大名のような威厳があり、空気は凛としているが、彼の回りだけ暖かい。その目をのぞき込んだ瞬間、何とも言えぬほど好きになった」と書いている。
 ギリシア人のハーンが出雲の歴史を古事記を読んで知っていたというと籠手田はいたく喜び、いろいろな古来から伝わる神事の行事にハーンを招待した。ハーンが熊本に転出する際、(この時はすでに小泉八雲になっていたが)籠手田は大変残念がった。
 
 この籠手田安定は山岡道場の塾頭・一番弟子である。籠手田は山岡に深く師事し、山岡鉄舟の武士道講話という対談集も出版している。
 山岡が禅を極め、無刀流を開眼した際、籠手田は立ち会った。籠手田は構えただけで「とてもかないません」と竹刀を捨てて平伏してしまったという。これほど強かった山岡だが幕末維新の混乱の際、ただの一人も斬っていない。ハーンは山岡に会ったことはなかったが、会えばおそらく籠手田と同じような印象を持ったに違いない。

 徳川慶喜を警護していた山岡の義兄・高橋伊勢守は泥舟と呼ばれている。高橋泥舟の明治での処世ぶりはさらに山岡より徹底していた。
 徳川慶喜の警護を務め終えた後、徳川家は駿府に移住するが、旗本の泥舟はそれに従い、静岡県地方事務を担当した。その後、廃藩置県となり徳川家が知事を退くと、泥舟も職をやめ、東京に隠棲、絵画骨董鑑定などで後半生を送った。
 泥舟は主君の前将軍が世に出られぬ身で謹慎している以上、自分が官職などに就くわけにはいかぬ、という姿勢を貫き通して徹底的に世から隠れた。
 勝海舟、山岡鉄舟と並び高橋泥舟の三人を「幕末三舟」と呼んでいるが、この三人は三様でそれぞれの武士道をつらぬいたと言えよう。

 口の悪い勝海舟は泥舟のことも書き残している。
「あれは大馬鹿だよ。近頃の才子ではあんな馬鹿な真似はするものかい。槍一本で伊勢守まで成り上がったのだが、武人として欠点はどこにもないよ。
 あいつが旧主(慶喜)と共に終身世に出ないと誓って、終身馬鹿の誉れと赤貧に甘んじて、豚の真似をしてるのはとても才子にできないよ。だからおれはあいつを大馬鹿だというのだ」
 
 これではあんまりで、ひどい言いように見える。だが、勝の言うところの才子というのは少々目端はきくが、こざかしい奴らで、骨もなく性根も坐っていないのに政界を遊泳しておる、という意味で海舟は使っており、ここでは伊藤博文・井上馨あたりを指しているものだ。
 幕臣の最も嫌うその才子と泥舟は正反対の生き方である、大馬鹿な生き方を才子に見せつけてやれ、と海舟は彼なりに泥舟を愛おしく思い、勝流でほめているのだ。

 明治のこの時でさえも勝が「大馬鹿」と呼んで珍しがる鉄舟や泥舟。
 彼らは際だって剛直だったろうが、あちこちに古武士のたたずまいをした旧幕臣はいくらでも残っていただろう。そして、わずか150年足らずだが、このような本物の武士は日本にはもうどこにもいなくなってしまった。悲しいばかりである。
 
 少なくともこのコラムでは残していきたい。
 
 オマケ:
 手塚治虫「陽だまりの樹」は手塚氏の先祖である医師・手塚良庵を主人公にした作品で、私の尊敬する緒方洪庵塾に手塚氏は入塾している(史実)
 一方、もう一人の主人公である武士・伊武谷万二郎は架空のキャラだが、伊武谷の親友として山岡鉄舟が登場する。良庵にとって緒方塾生同期の福沢諭吉や緒方先生そしてこの山岡は史実通りによく書けており「アドルフに告ぐ」と並び手塚作品の晩期の名作の一つである。ぜひお勧めである。

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2013年09月15日日曜日「GATACA・・・」
 今年の夏は殺人的な暑さだった。何も手がつかない、パソコンに向き合うのも勘弁といったほどの猛暑で、ようやく朝晩秋の気配がただようようになってやっとなんとか仕事しようかといった時期である。(なんだか何年か前も同じようなこと書いた気がする)
 
 この間、朝早起きした甲斐があった。
 日本時間で9/8早朝、2020年東京五輪が決定したのだ。56年ぶりである。私はTVでその瞬間に立ち会った。

  いやー、ドキドキしましたわ。IOC会長が封筒をあけるとき合格発表より緊張しましたねー。
 
 日曜日とその翌日は何度も何度も五輪決定の瞬間をTVで流していたが、何度見てもいいものである。さらに、敗れたイスタンブールからもおめでとうとのメッセージが届いたとのこと。さすが、親日国家トルコである(「情けは人のためならず」参照)
 
 マドリード、イスタンブールの分までがんばって最高の大会にしようという気になるというものだ。(お前が言うな、はい、すみません)
 私は1964年東京五輪の時はすでに生まれてはいたが、年端もない幼児でほとんど覚えがない。時代がもっと下った他のオリンピックと記憶が重なってしまっている。今度こそは冥土の土産に生でぜひこの目でアスリートの祭典を見てみたいものだ。
 
 さて、
 
 このあいだ「GATACA」フランク・ティリエ著、という小説を読んだ。クロマニヨン人から現代に伝わるDNAのなか、封印された「殺人遺伝子」を巡るSF(もちろん全くのフィクション)だ。
 
 タイトルのアルファベット文字は生物のDNAを構成する四つの塩基グアニン(G)、アデニン(A)、チミン(T)、シトシン(C)の頭文字を組み合わせたものだ。文庫本で上下巻1000ページを超す大作だが、飽きさせないであっという間に読める。遺伝子の基本的なことがらを知らなくても、登場人物に説明するシーンで同時に読者にもわかる仕掛けになっているから理系でなくても心配はいらない。
 
 本の欄外下のスペースに冒頭から最終ページまでGATACA・・・というように四つのアルファベット記号がずっと並ぶ。この記号の羅列はエピローグで明かされるが、これはヒトゲノム計画で解読されたヒトの第一番染色体の冒頭の塩基配列とのこと。
 ずらずら並んでいるのだが、もちろん最後までいっても、第1番染色体のごくごく一部であることは言うまでもない。

 ほぼ同名の1997年米映画「ガタカーGATTACA」というものもある(正確には「T」が一つ多い)が、これは全く別のお話で、今回読んだ本は原作でもなんでもない。
 
 ネットでGATACAを調べていたら、こちらの映画の方がよくヒットするので興味がわき、ついでにDVDを借りてきて見てみたが、これはこれでおもしろかった。近未来が舞台でありえそうな話である。
 
 映画のガタカではその時人類はDNAをすべて解析されており、そのDNAで潜在的な能力がすべて計れることにより仕事やスポーツでその「適正者」か否かを峻別することもできた。つまり、生まれつきの能力で階級、身分も決まっていると言っても過言ではない。
 
 土星へ航海する宇宙飛行士を育てる「GATTACA」計画ではそのDNAの「適正者」しか許可されてない。そこで、主人公の「非適正者」が「適正者」のDNAを買い、幼いころからの夢であった宇宙飛行士を目指す話だ。当然、すんなりいくわけがない。が、その涙ぐましい努力が心をうつ。
 
 染色体、DNA、遺伝子・・・学校で習ったこれらはなんだか理解しがたいもので、近づきにくいとも思える。以前、遺伝子の配列を習ったとき私は恐怖を覚えた、とコラムでも記したとおり、これだけ複雑な生命の神秘の大本である神の暗号は案外単純な法則で書かれている。
 
 すなわち、四つの塩基から三つを選びその種類と並び方で一つの意味を形成し、一つのアミノ酸を作るように指定する。これが遺伝子の特性であり唯一無二の大事な仕事である。理解している方には釈迦に説法だが、簡単におさらいしてみよう。
 
 タンパク質は20種類のL-アミノ酸が組み合わさってできている生物の基本構成物である。体や血液の材料であり、生命体そのものといっていい。
 皮膚も皮下組織も、筋肉も臓器もすべてタンパク質で構成される。ホルモンや酵素もタンパク質(小さいものは特にペプチドと呼んでいる)なので、生きているということは、古くなったタンパク質は分解して壊し、また同時に新しく休みなく作り続けることと言い換えてもいい。
 
 材料はふんだんにあるとして、どのアミノ酸をどうつなげば目的のタンパク質になるのか。その設計図が遺伝子の3文字ずつのコードである。3文字一組で一つのアミノ酸を指定する。設計図の始まりと終わりのサインも3文字で指定している。

  「なぜ3文字なのか」の疑問には答えではないが、必然である理由を理解するのは難しくない。
 2文字なら4×4の16通りの種類しか指定できず、20のアミノ酸に足りないからだ。
 3文字では4×4×4の64通りの指定ができる。当然重複もできるが、多少GATACAが入れ替わっても、意味が変わらないこともあり柔軟性があるから便利である。
 
 さてこの指定方法を理解するためには以下のような例えを使うとわかりやすい。
 
 キョウ ソコデ ボクハ ソレヲ タベタ(今日そこで僕はそれを食べた)
 
 という3文字一組の単語が並んだ「意味のある文」これが遺伝子の代用とする。キョウ→一つのアミノ酸というふうである。
 
 遺伝子が変異する、ということは単語や文の意味が読み取れなくなる可能性とほぼ等しい。
 最大のダメージを与える変異は文字が一つ足されてしまう場合だ。
 
 上の文の冒頭に「ア」という文字をたしてみよう。そして、3文字でくくると下記のようになる。

  (ア)キョ ウソコ デボク ハソレ ヲタベ・・・
 
 あっという間になんの文かわからなくなる。
 人間なら「ああ、アという文字が混入したんだな」とわかってくれるが機械的に読む遺伝子はそうはいかない。
 このような場合は大半が後に述べる方法で染色体もろとも細胞死に誘導される。

 この変異を「枠」がずれることから「フレームシフト」というが、むしろ人体に与える影響は少ないといっていい。なにしろ、遺伝子が一瞬で役立たずになるので、だめになったその細胞さえ跡形もなく片付けてしまえば、生体としては問題はない。だが、たった同じ一文字でも、ピンポイントにダメージを与える変異はステルスのように細胞も気づかないからやっかいだ。
 
 たとえば元の上の文の「ョ」が「ノ」に変異したとしよう。すると「(今日)キョウ」→「(昨日)キノウ」になり意味は読み取れるが、時勢の異なる別の文になってしまう。
 
 もしこれがミステリ小説で、この文がアリバイ工作の一環だったら、この誤植は致命的である。たった一つのミスで全体の筋立てが台無しになる。
 
 だが、意味は取れるので、フレームシフトと違い気づかず、編集部も素通り、本は出版してしまうかもしれない。遺伝子もそれと同じで、生命に関わらないわずかな変異は「遺伝子病」という病気として発症する。

 代表的な病気が赤血球であるヘモグロビンが鎌状に変形して貧血になる「鎌状赤血球症」である。
 これは11番染色体のβ鎖6番目の塩基たった一つチミンがアデニンに変化しただけでこの病気は発症する。このようなキョウがキノウに変わるようなピンポイントの変異を「点突然変異(ポイント・ミューテーション)」と呼んでいる。
 

 ウイルスでもこれは起こりえることで、性質ががらっと変わると人類にとてつもない影響を及ぼすことがある。
 
 今年の春中国発のトリインフルエンザH7N9型は大きな騒ぎになった。これはいままでの高病原性鳥インフルH5N1型と違って鳥体内ではあまり病原性がなく、ヒトが感染すると重症肺炎になるというやっかいなウイルスだ。
 
 トリではかかっても鼻風邪くらいのものだから鳥がバタバタ死ぬこともないが、このトリから人間が感染すると命に関わる肺炎になるから恐ろしい。  肝心のトリはみな元気だから、駆除しにくく発見も遅れる。この迷惑なH7N9型の遺伝子、ある一個所だけ変異すると増殖至適温度が5〜6度下がることがわかっている。
 
 トリの体温は42度と高くトリインフルは大抵この温度で増殖するが、ヒトはそれより5〜6度体温が低いため、トリインフルは増殖しにくいことになっている。
 が、先の点突然変異したH7N1はヒト体温で爆発的に増殖する。このウイルスがもしヒト→ヒト感染を成立させた(幸いまだない)ら、2009年のパンデミックインフルエンザのように一瞬で全世界に拡散するという恐ろしい結果になる。
 

 点突然変異はいつ起こるかなど予測がつかない。場所も規模も生まれるまでわからない台風の発生みたいなものである。
 
 また、p53と名付けられた遺伝子がある。これはヒトも動物にも、昆虫も持っている。
 
 細胞は常に普段と違う行動をとったりする染色体を見張っており、異常行動をするDNAは停止をかけられる。そしてその変異が修復が可能なら傷んだ場所を切り取って新たに作り直す。
 
 修復不可能なくらい傷つけられた場合はどうするかというと、このp53遺伝子が発動する。
 p53遺伝子はほかの遺伝子をも駆使して駄目になったDNAを細胞ごと死へ誘導する。それも派手に細胞が破裂するような壊れ方でなく、細胞の活動をやめさせて、フリーズをかけ次第にしぼんでいく。
 秋になり色づいた葉っぱが風に吹かれるまでもなく自然にぽろっと落ちるがごとくのこの静かな細胞の死を「アポトーシス」と呼んでいる。

 p53遺伝子は不埒なDNAを細胞丸ごとアポトーシスを起こさせ、特に癌化した細胞をも死へ導いてくれるため、殺し屋のような働きではあるが「DNAのガーディアン(守護神)」と呼ばれている。先に述べたフレームシフトを起こした染色体を片付けるのもp53の役目の一つだ。
 
 ところが、p53遺伝子が発見された当初は癌化した細胞に多く見つかったことから、癌を引き起こす遺伝子と誤解されていた。このわけは後にわかったことだが、それら癌細胞に巣くっていたp53は「点突然変異」を起こした変異型(ミュータント)がほとんどであったのだ。
 
 これは見た目はp53だが、本物と似て非なるもので、たった一つの塩基が突然変異を起こしたそれは全くアポトーシスを起こさせない。
 
 あたかも反日デモ暴動をなにも止めず見送るどこかの国の公安機動隊のごとく暴れる癌細胞を「見て見ぬふり」をしてしまう。変異型p53は癌細胞の発育を止めることはできないガーディアンもどきなのだ。
 
 するとp53にこの点突然変異というダメージがおこらなければ、他の場所に変異が起こっても、アポトーシスに誘導してくれると想像がつく。だから、p53を守れば癌化しないだろう、とここ20年くらいかけて人類はp53を追跡し続けた。
 

 家系的に若年の内から発癌が多発する血統の一家を「リ・フラウメニ症候群」と名付け遺伝子の研究が続けられてきた。大概は40歳未満に発癌し、しかもいろんな臓器に多発のことも少なくなく、それを逃れても60歳以前には必ず1つ以上の発癌が見られる彼らのDNAを解析すると生殖細胞系列のp53遺伝子が変異していることが突き止められた。
 
 やはり、p53遺伝子は癌化から体を守っていたと考えられたのも無理はない。ただし、普通にかかる全癌の数十%はp53と関係なく発癌し、ひとたび発癌してしまえば、(目に見えるほど大きくなればという意味だが)もうp53遺伝子を導入したところで癌が治るわけではない。やはり早期発見は大切であることには間違いない。
 
 これだけ大事なp53は細胞内でもそれ自体守られていると思いがちだが、ダメージを受けやすい個所、遺伝子のウイークポイントが少なくとも6個所以上あるとされている。変異を起こしやすいこの弱点を「ホットスポット」と呼んでいる。p53遺伝子が変異を起こしても、排除されないことはおわかりであろう。警察がその動きを停止してしまえばだれが犯罪者を捕まえる?
 

 なぜ、全能の神は警察力を停止しやすいように作ったのだろう?


 これから先は推測の域をでない。

 哺乳類はだいたいが成年になってからが余命が長い、人間がもっとも長く成年まで20年。だが、その後約5倍弱ほどの余生が待っている。
 昆虫なら生殖活動し次代に遺伝子を残したらすぐに消滅するが、哺乳類は割と長い間生殖時間が設けられている。

 遺伝子のバリエーションはシャッフルすればするほど増えていく。一方、コピーも同じだが、刷れば刷るほど印字は劣化するのごとく、遺伝子も同じようにすり切れていくが、その劣化した遺伝子をp53が次から次へと消し去っていったら老化しなくなってしまわないか?
 
 他の遺伝子と同じくp53も放射線や化学薬品で切断できるように、タバコや酸化食品多量摂取とか大酒のみとか不摂生を繰り返すとp53がより傷みやすくできていて、神から見たら堕落した「不適正者」は発癌するようにプログラムしたのでは?と勘ぐりたくなる。だが、こんなことは証明されたわけでなく私個人のたわごとである。


 物理学者たちが頭の中で必死に考えた宇宙の始まりであるビッグバン。ニュートリノ理論などはビッグバンを証明する一つの証拠だというが、証明こそできないが100億年以上前のことが多くの学者が賛同する事実が人類にわかるのに、目の前のDNAの神秘がわからない、というのはどういうことだろう。
 

 東野圭吾の「カッコウの卵は誰のもの」というミステリがある。
 
 アスリートの遺伝子を解析したところトップ選手に共通の遺伝子の組み合わせが発見され(作中でFパターンと呼んでいる。もちろんフィクション)、それを持つ選手を集め、さらに能力を強化するというプロジェクトだ。
 ある元オリンピック選手の娘がそれを持っており、親子二代のオリンピック遺伝子をチームはぜひパターン解析させて欲しいと望む。アスリートの能力を濃厚に遺伝しているDNAをさらに調べたいのだ。だが、父にはそれを絶対にされたくない理由が・・・という筋立て。


 開催国はメダルを取ることをより求められる。東京五輪の主戦力は今の中高校生だ。
 今までも全国から集められた各種目の天才少年たちはオリンピック選手養成所に入るが大半は夢破れて退会するとのこと。その悲劇を遺伝子を解析することで少しでも減らしたいということだろう。だが、人間を遺伝子だけで選別することに関してはどこかひっかかる。遺伝子組み換え食品を生理的に忌避する私たちの心情は何か似てはいないか?
 
 だが、遺伝子解析で乳癌になる確率は・・%といって、有名女優が予防的に手術してしまう昨今である。こんな風な世の中はもうすぐかもしれない。7年後の東京五輪に向けてもしかしたら、すでに始まっているかもしれない。
 
 作品の中でも登場人物に言わせているが、「努力を否定しているわけではなく、努力するともっと伸びる人材を求めている」と。
 
 それは人類が遺伝子のからくりを知らなかった時から今までも共通の願いである。

 とはいえ、アスリートに感動を覚える応援者の感情は、彼らがガタカの「不適正者」だとしても、努力してつかみ取った汗と努力の結晶をたたえるのであって決して優れたDNAなどではない、と思う。
 
「失敗は成功の母」、であり「天才は1%の才能と99%の努力」と信じてるゆえに7年後の東京五輪が本当に楽しみである。


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2013年11月29日金曜日「おかえり!ポール!」
今回、ビートルズおよびポール・マッカートニーに全く興味のない方は割愛ものです。あしからず。

 ポール(マッカートニー)の東京公演に行ったかいって?もちろん!
 結論、いいもん見させてもらいましたわ。いつ死んでも悔いは・・・と続くが縁起悪いんでやめます。
 
 そりゃ30年以上、ビートルズもウイングスも聴いてきたからね。彼の年を考えると、悪いが来日は今回が最後かもしれないし、全力でチケとりにいったよ。
 
 でも、今回はチケットとるのが本当に大変だった。来日が決定して、速攻、最速先行抽選応募したのが6月頃だったかな。信じられないことにそれ落ちて、ん?だいたい「最速先行」はジーサン・ロックなら取れるんだけどね。以来、矢継ぎ早に他のチケ会社の先行抽選をできるだけトライ。
 
 が、それも全部落選。抽選がだめならと、一般発売ねらい。
 それはある平日の午前10時一斉スタートだった。吾輩、仕事なんで家族に頼んで電話とPCの前で10時開始にアクセス連打とリダイアル電話を家族にやってもらったんだけど、それもつながらないまま。やっとつながったと思ったら「福岡公演のご案内」おいおい、そりゃダメだ。
 で、その直後「東京公演は予定販売枚数を終了しました」とテープの声(涙目)その間わずか5分だよ。昼に「撃沈〜」、とメールが来たが、それは仕方ない。一般発売はクモの糸のように細いルートだからなぁ。そろそろここらで焦り出す。ロンドンオリンピックの開会式ヘイ・ジュードが効いたのかねぇ。ドーム・コンサートでしかも3日もやるのに取れないなんてことがあるのか!

 で、焦ったあげく○○カードまで作って(カード会員になると2倍の当選率だそうだ)
 最後の最後にそれでやっと当たった。当たらなかったらヤフオク(ヤフー・オークション)行きだったね。危ないところで拾われたって感じ。
 
 チケットとるまでこれほど苦労するとは思わなかった。第一、11年前のポールの東京公演Drivin Rain Tourの時は余裕で取れて、まあそれなりの入りだったのに、今回行ってびっくりだったのは盛り上がり方が前回と比べハンパない。すげぇの一言。

 ポールも観客もね。老いてますます盛ん、って彼のことだったのね。71歳。恐るべき「前期高齢者」がいたもんだ(笑)あと4年で後期かい?ありえない。
 
 それにしても、ありがたいね。彼は以前日本来日の際、バカなことに大麻不法所持で捕まって以来ブラックリスト入りし、永久に日本入国できないはずだった。
 それを1990年、世界的な文化功労者ということで入国管理局の特別許可がおりて、すぐ真っ先に日本公演をしてくれたが、その際はまだ駆けだし医師の吾輩はコンサートなどもってのほか。当直してなければ、夜遅くまで病院だったから、どっちみちチケットとったところでムリ。
 第一、その頃東京にいなかったかな。でも、当時誰が来日しようがどうしようがそっちのけ、仕事に追われる生活だったから、自分のミュージック・シーンは空白の10年だった。
 
 1991年のジョージ・ハリスンの東京公演は絶対に行きたかったな。
 あの時だけは本当にくやしかった。彼が早世する(2001年享年58歳)のがわかってたら、先輩をだまして、仮病使ってでも行きたかった。
 実は吾輩、ビートルズの中で一番のシンパはジョージ・ハリスンなんすよ。
 
 ビートルズ時代のジョージの楽曲、インド音楽かぶれのマイナス点を引いても、そのメロディは美しいのひと言。ジョージの泣き節、ってのはファンにたまらないのですわ。ソロになっても輝きを失っていないので、今でもほぼ全部の楽曲デジタル・オーディオの中。ウォーキングしながら聴いてるよ。
 
 ああ、ポールからそれちゃったね。もちろんビートルズメンバーはみんな好き。
 
 今回のポールの東京ドーム公演に望んでこっちも予習バッチリで望もうと。まず、先行の大阪、福岡公演のセトリ(セット・リスト=演奏曲リスト)をネットから手に入れ、それを眺めると全39曲!
 
 いくらビートルズ時代の曲もやるから(短い曲多い)って大丈夫かね?
 ファンとしてはたっぷり聴けるんで全然文句ないけど、ポール酸欠で倒れるんでないか、といらん心配もしてしまう。ほとんどすべて、よく知っている曲ばかりだが、4曲ほど演奏するポールのnewアルバム「NEW」(タイトルが「ニュー」)の楽曲もチェックせねば。
 
 聴いてこれが驚きだ。若々しすぎる仕上がり。古稀の人の作品とは思えない。だいたいジーサン・ロックの新譜はダメ出しペケペケのことが多いけど、どの曲もサビのリフ(リフレイン)が覚えやすく、キャッチーなメロディなので、1〜2回聴くとほとんどの曲が口ずさめる。
 これがポール・マッカートニーの曲作りの魔術であり真骨頂なのだ。だがそれはビートルズ時代を含めて全盛期の力。さすがにここ10年は??といった感じだったが・・・
 
 彼も新作は自信があり手応えあったんだね。彼くらいの年齢のアーチストになると「昔の曲でやってます」てな感じで、盛り上がる曲も過去のものが多く、新曲やってもそんときゃ結構観客も「???・・・シーン」になりがち。(前回公演がそれっぽかった。)
 一、二発、大当たりした演歌歌手の新曲披露を思い出していただければ想像に難くない。でも、今回彼の新曲のパートでも、観客ボルテージ全く落ちず。みんなも「NEW」買って聴き込んで来たんだね!
 
 で、ドーム。これが開演時間が迫っていても、ゲート前長蛇の列。
 「最後尾はこちらです」とメガホンかかえたクルーが連呼。それがくねくねクネクネ文字通り長蛇。ディズニーじゃないんだぞ!。
 ドーム内の圧力を保つため悪名高き「回転扉」だから一人ずつしか入れないためだ。ようやく入場すると、もう大半は埋まって、満員御礼下げなきゃって感じ。そりゃ、これで空席あったらわたしゃキレますよ。どんだけチケット・ゲットするのに苦労したと思ってんだ。
 
 開演前の会場ではポールの曲が編集されメドレーでかかり、ステージ脇の大ビジョンにポールのプライベート写真を編集してスクロールさせスタート待ち。ワクワク・ドキドキ。
 
 開演時間15分オーバーした頃よりアリーナ最前列あたりが挙動不審。
 ウエーブが始まったのをみると、開演前サインを感じ取った公演リピーターか?いいなぁ。何度も聴きにこれて。

 ほどなくライトが落とされ、絶叫と拍手の中、ポール・マッカートニー登場!
 
 いやー、全員スタンディング・オベーションですがな。吾輩も満面の笑みでポールをお迎え。

 「タダイマ、トーキョー!」
 と日本語で。すかさず「オカエリ」と返す観客。いいですねぇ。11年前と違ってステージではポールの日本語のコメント多かった。いっぱい日本語勉強してきたのだろう。本当に恐るべき71歳。
 
 出だしの数曲はみんな総立ち手拍子でノリノリ。4曲目くらいにバラード来たんで、ポールより若いくせに、みんなちょっと一休み。パラパラと座り出す。
 吾輩もご多分に漏れず、きたるエンディングに向けて体力温存とばかり坐ろうとしたのだが、前の席の女性がiPadを頭上に掲げて、録画始めたではないか!他のみんなはちらちらと係員の姿がないとスマホでこっそりすまなそうにシャッターまたは短い動画撮り。しかし、こいつは堂々と(しゃあしゃあと)一体全体・・・
 
 常識ないのはともかく、立ったままあんなボードみたいの上げられたら後ろの坐った吾輩何も見えんじゃないか!思わずどついたろか、と思ったが、暴力沙汰でつまみ出され、新聞ネタになるので、ぐっと我慢し、日和って、仕方なく立ち上がって鑑賞。おそるおそる後ろを見ると、若いのう!皆立ってたんで吾輩が邪魔になることはなくそれはよかったが。
 
 結局、やりたい放題のその彼女、後半になって係員に肩をこづかれ、iPadしまい込む。やっとか!でも、甘い!甘いわぁ!心中ここで黒HATANAKAに変身。
 そいつから、iPad取り上げて動画消去しろ!とも思い、お前さんのおかげでわしゃあ、あともうずっとスタンディングだったわい!おかげでコンサート中ずっと立ちっぱなしだった吾輩、なんかの罰ゲームかと思ったくらいだ。心でこんだけののしった矢先、どうしてくれようと思ったが、
 ポール・ファン同士として「そうだよね、映像にでも残してでもずっと見ていたいよね」と賢く(笑)「白く」変身し、以後も腕を振り上げ、「よいこ」のみんなに同化。日和ってしまいますた。でも、よい子のみんなはコンサートで録画は絶対やめようね。真似してはいけません。後ろの迷惑になります。
 
 さて演奏曲だ。
 多少マニアックになるが、ビートルズ時代の吾輩大好きだった曲「I've Just Seen a Face(夢の人)」Wings時代のアルバム「Band on the Run」からの大作「1985」これをポールのナマ演奏で見られる日が来るなんて!う、うれしすぎる。ありえへん!とばかりに足元震えましたわ。
 実際は立ちっぱなしで足つりそうになっただけかも知れないけど。
 
 そして「ツギノウタハ、ジョン、ノ、ウタデス。ジョン、ニ、ハクシュヲ」とポールは日本語で言い、ギター一本でしみじみと歌う「Here Today」
 
 超満員のドームが静寂につつまれた一瞬である。ポールが作ったジョン・レノンに捧げたバラードだ。
 
 一緒に泣いた日もあったよね、君が今日ここにいてくれたら・・・If you were here today、

 ジョンとポール、ビートルズ解散の当時それはいさかいもあったろうが、音楽を通じてジョンは本当にポールの親友であり、よき理解者だったろうということがこの曲でもよくわかる。
 ジョンは生前、「人生で僕は二人の素晴らしい人を選択した。一人はポール・マッカートニー、そしてもう一人はヨーコだ」と言っていた。
 でも、悪童ジョン・レノンはビートルズ解散後、ポールのことで悪態をつき、自身のアルバムでも「今そんなチンケな曲を書いてて、眠れるかい?多少ましだったのはイエスタデイだけだったな」などとポールをからかった曲を発表していた。
 だが、ひとたび他人がポールの悪口を言おうものなら烈火のごとく怒り出し「ポールの悪口を言うな!ポールを批判できるのは僕だけだ!」ともよく言っていた。確かに!それはそうだ。やっぱりジョンもポールが大好きだったんだね。
  
 ポールのアコースティック・パートはこの曲でひとまず終わり、それからはノリノリ。ステージ中央に持ってきたカラフルな色彩のキーボード(マジック・ピアノとポールが名付けた)に座り、力強く連打「Lady Madonna」
 この曲ってライブのためにあったんだ、と感嘆するくらいの出来。数多い自身の作品からの選曲もバッチリだ。
 
 ピアノ、ギター、ベースを一曲ごと持ち替えて今度はひときわ小さい弦楽器を持ち出してくる。これがジョージから譲り受けたウクレレ。

  「ツギハ、ジョージノ、ウタデス!ジョージニ、ハクシュヲ」と日本語でいい、元ビートルズのメンバー、ジョージ・ハリスン作曲の「Something」をウクレレ一本で軽快に歌い始める。
 ジャンジャン、ジャカジャン「Something in the way, she moves」観客みんなみんな手拍子だ!いいぞ!いいぞ!
 
 曲構成ではあの有名なサビの部分からウクレレのみの演奏に加えて軽いベースを入れサウンドに厚みを増していく。そして、ワンコーラスが終わる際にオール・メンバー演奏参加。間奏は往年のジョージのギター・ソロ・プレイだ。
 ギターに持ち替えたポールはストリングスバックにジョージばりに歌い上げる。これは感涙もの!ステージの大ビジョンには在りし日のジョージとポールのツーショット写真が大写し。ジョージ・ファンの吾輩思わず涙腺がゆるむわ。
 
 歌い終わると「Thank you! thank you,George!for beautiful song!」と今度は英語でポール。ジョージ美しい曲をありがとう、と。
 人の作曲したものなんぞ一曲も演奏しなくても十分のはずのポールがあえてジョージの「サムシング」を歌う。よほどこの曲にリスペクトがあるんだね。天才作曲家のポールがである。
 ビートルズ解散時、ポールは3人を敵に回し、ジョン以上にいさかいが絶えなかったという険悪な仲だったジョージ。こうして自分のコンサートで彼の曲を歌い上げるのはもう確執なども何もなくジョージの冥福を祈っているに違いない。
 
 思えば、今日も最初の方に演奏した「We Can Work It Out(恋を抱きしめよう)」はビートルズ・ナンバー。だが、ポールが導入部を書き、ジョンがサビを書き、ジョージがそのサビの後3拍子につなげた部分のアイデアを出した3人の合作曲。
 ポールはこの曲を熱唱している時に仲がよかったその時代のことを思い出していたんでは?そういったことも含めた今回の選曲だったのかな。
 
 吾輩、至福の時は続く。
 
 オブ・ラ・ディ・オブ・ラ・ダも「ミンナ、ウタッテ」とあおりドームはすべて一体化。
 以下怒濤のエンディングまで、ラスト5曲は神がかった選曲(当社比)
 
 唯一「Let It Be」で静寂がドームに戻る。
 いやー、この超有名なビートルズ・ナンバー。どれだけ多くの人にカバーされてきたことか。映画「レット・イット・ビー」のように4人そろった演奏を聴きたかったが(イタコでもムリ)、ポール本人の曲を聴ける幸せをかみしめなくては。

 ラストの「Hey Jude」はお約束の「仕切りラララ〜ラー、コーラス」。
 その後半のコーラスはポール観客合わせての大合唱で途中「ダンセイダケ、ダンセイダケ、ウタッテ」とかラララ〜を仕切るあれだ。
 11年前は日本語まだだめで、「This time,Just Man!just fellow!Come on!」ってシャウトしてたのに、こりゃ本当にすごいな。日本語相当勉強したよね、ポール。最高だぜぇ。

 ヘイジュードで、ひとまずクルーと深々とお辞儀。当然、拍手は鳴り止まない。ほとんど水一杯くらい飲んかどうかの時間で、大声援がうねりだす!
 ポールの再登場だよ。それがお茶目に巨大な日章旗を振りかざしながらステージを走り回る。
 おおー、ドーム一杯大歓声。すぐ後ろからクルーの一人が同じ大きさのユニオン・ジャックかかえて振り回し登場。
 隣の同年配のおっさんが「日英同盟か」とツッコむ。古いよ!(1902年)

 で、3曲のアンコール。
 一曲終わると、「ミンナ、モット、キキタイ?」とあおる。これも日本語だ。ポールすごすぎるよ。ドームは瞬時に「ウォー」とほぼ全員拳を振り上げ絶叫!ここは敬意を表して「Yes!」って言ってあげなきゃいけなかったかな。でもほとんどのみんなは「もっと聴きたい!」と叫んでた。
 
 さらに追加アンコールは圧巻。
 ギター一本で再び登場したポールは代表曲「Yesterday」を歌い出したよ。観客は赤いサイリウムを一斉に掲げる。野火というのをみたことはないが、これは見事な光景。ポールは今回この曲を3・11大震災の被災者に捧げると言ってた。

 そこでポールへ答礼のサプライズとして入場時に配られ、この曲がかかったら掲げるよう指示があったようだ。入場ぎりぎりの吾輩はもらえなく、手持ち無沙汰だったが、それはそれはきれいな景色だったな。 
 
 いよいよ最後の最後になってしまった。さすがに疲れが出たのか、ため息のように一息つき「ソロソロ、カエル、ジカンデス」とこれも日本語で笑いを誘う。若い女性が「帰らないで〜」と叫んでいたが、それはご愛敬。
 
 ラスト・ナンバーは「Golden Slumbers〜Carry That Weight〜The End」のアビーロードメドレー。伊坂幸太郎氏の名作「ゴールデン・スランバー」に繰り返し登場しストーリーの根管をなす名曲だ。ピアノで弾き語るポール。
 これで本当に最後だ。
 
 「かつてそこには故郷に帰る道があった。家にも帰る道があった。お休み、かわいい子、泣かないで、僕が子守歌を歌ってあげるから」
 Golden Slumbers
  
 そして「The End」
 この曲こそはビートルズ4人でレコーディングした最後の曲だった。その直後ビートルズ解散の発表!何と象徴的なタイトルだ。
 でも、コンサートではポールはいつも「ジ・エンド」を大トリに持ってくる。
 
 The Endの間奏(前奏?)はビートルズの曲のなかでも最高のロック・セッションだ。アンコールの前半でヘビーな「ヘルター・スケルター」もやってくれたが、ポールは「これが世界最高のロックだぜぇ」とばかりにギターをうならせる。もうただただ、感動もの。

 そして一斉にサウンドが鳴り止み、ピアノ和音だけでポールが静かに歌い始める。
 
 And in the end,the love you take, is equal to the love, you make
(結局さ、君が得る愛は、君が与える愛と、「同じ」ってことさ)

 で全員でコーラス。これで本当のおしまい。さびしい限りだ。ショーが終わるといつも感じる。だからいろんなアーチストが「The Show Must Go On」という曲を書くんだな。(ちょっと違うか)
 
 「アリガトウ、アリガトウ、トウキョウ、マタ、アイマショウ、ゲンキデネ」と紙吹雪に包まれポールはそう言ってくれた。本当にまた来てくれることを願ってやまない。
 
 思えば歴史を語る時にターニングポイントがいつもある。日本なら「明治維新」英国なら「ノルマン・コンクエスト」その前後の歴史はほとんど断絶している。

 ロックシーンに当てはめるとその事象は当然と言っていい「ビートルズの出現」。

 その前後ではロック・ミュージックは断崖絶壁のごとく異なっている。誰がなんと言おうと絶対そうだ。誰の挑戦でも受ける(誰と闘ってんすか?)
 
 そのビートルズでもアルバム「ラバー・ソウル」以前以降はビートルズ自身これも断崖のような変遷だ。と決めつけてるのは吾輩のみだが(これも誰の挑戦でも受ける・・・しつこい)、そのアルバムや曲は作家の心をつかむのか、村上春樹氏は長編「ノルウェーの森」A-2曲目、短編「ドライブ・マイ・カー」A-1曲目をタイトルに小説を書いている。
 井上夢人氏にいたってはまんま「ラバー・ソウル」というタイトルの作品を書き、章立てすべて章タイトルを曲順のまま使っている。みんな、どんだけ好きなんだ!
 
 ビートルズのことやポール、ジョージ、ジョンの話になったらどれだけでもそれこそ夜を徹してでも語ってしまうわ。

 あ、リンゴごめんね。忘れたわけではないけど、アーチストとしては3人の後塵を拝しているといってもしかたないかな。でも、ちゃんとリンゴのソロアルバムも聴いてますよ。
 
 夢のような2時間40分、吾輩の心の中ではまだショーは続いている。本当にポールの言葉を信じていいのか?
 
 「マタ、アイマショウ」には「Yes!Yes!Yes!」と答えたい。


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